「第五回 津久井やまゆり園事件を忘れないZoom集会 in みえ」を終えて

下記のお礼と感想は、8月4日に西脇個人のFBページに投稿したものの一部ですが、やはり、こちらの方にも投稿しておきたいと思います。

例年のように、今年も「第五回 津久井やまゆり園事件を忘れないZoom集会 in みえ」に間の会は、賛同団体として参加したつもりでしたが、その辺りの扱いについて、実行委員会であまり詰めて話し合うことがなく、結果、他の団体も同じなのですが、各団体と集会の実行委員会との関係が曖昧なまま開催に至ってしまいました。今年に関しては、それぞれ個人として実行委員会を立ち上げ運営していったという方がより実態に近いのではないかと思います。来年はどうなるか、まだ分かりませんが、そのような形で、一応、今年も間の会のホームページやメールのご案内などで、告知いたしましたが、厳密な意味で賛同団体と言えるのかどうか少し曖昧であることをご報告しておきます。


こんばんは。

もう完全に一週間以上経ってしまいましたが、改めて、「第五回 津久井やまゆり園事件を忘れないZoom集会 in みえ」に参加いただた皆さま、また、配信を視聴いただいた皆さま、誠にありがとうございました。

わたしは、この集会が終わってから、かなり長い間、少しぐったり疲れたような感じでした。

また、FBに言葉を置くことが、何故か非常にしんどく感じられて、ご挨拶も出来ませんでした。申し訳ありません。

今回は、初めての試みのオンライン集会でしたが、集会であるのでオープンな場所の代わりとして配信も行ったのですが、オンラインで会議などをやるのと、オンラインで集いながら、配信も行うのでは、またかなり手応え、感触も違うものだなと思いました。

実は、連絡を下さった方だけでも、結構、視聴してくれいていた方がみえて、色々なご感想をいただきました。

それは、非常にありがたいことなのですが、非常に様々な反応、感想があり、一人一人の方に返信をしながら、配信というのは、こういうことなのかという思いも新たになりました。

中には、オンラインで集会に参加することは、どうも、身体の障害当事者でないといけないのではないかというような感じを持たれて視聴されていた方もみえたようですが、そういう風に思う方もあるのだなと、これは結構驚きでした。

やはり、どうなのでしょう、この事件についての集会を参加するということは、何かハードルを感じさせるようなところがあるのでしょうか。

多かれ少なかれ、かなりの衝撃を与えた事件だと思うのですが、そうでもないのでしょうか。

もちろん、今は、コロナのことで既に世の中が大変なことになっているし、この一ヶ月の水害の被害も計り知れません。

こうした災害と、このような事件とは、また異質のテーマですが、全く無関係ではないようにも思います。

同じような時期に、昨年は京都アニメーションの事件がありました。

そして、今年は、この時期が近づいて来た頃には、大西つねきさんの発言が大変炎上して、激しい議論になったり、ALSの人の嘱託殺人の事件が明らかになったりしました。

わたし自身は、こうした最近のことで様々に語られたり、議論されていることと、このやまゆり園での事件のことは、全く無関係ではないように思いますし、切り離して考えられることではないようにも思いますが、いかがでしょうか。

最近、特に、「死生観」というような言葉が多く語られるようになって来ているのが、何か非常に不気味な感じもいたします。

いずれにしても、今年、5回目の集会をやってみて、少し、これまでの集会と、違うニュアンスの言葉が出て来ていたようにも感じられ、わたしは、それをありがたく思いました。

事件のことも、社会のことも、あるいは「死生観」などということもそうなのですが、学者、識者、宗教者等々、たくさんの言葉が発信されますが、それらを読んだり、参照したりすることは、様々なヒントや、滋養にもなりますけれど、わたしは、出来れば、そうした、いかにも説得力のありそうな専門家の言葉に、乗っ取られないようにしたいと思います。

やまゆり園事件の犯人の言葉は、たくさんのルポルタージュで読むことが出来ますが、非常に奇妙な感じがします。本人の中では、考えて結論を出したような感じで常に結論が一貫しているのですが、何かに乗っ取られているような感じも受けます。あくまでもわたしの感想ですが。

もう多分、会うことは出来ないのでしょうけれど、会ってみたかったです。

本当に、あのような言葉だけを話す人だったのか。

今回も、集会では、まとまった考え、何らかの結論を出そうというようなものでもなく、また、集会によって、議論し、合意形成するとか、ある態度を決めるとか、そういうものは目指しませんでした。

ただ、その人の生の言葉に触れたいと思うばかりでした。

オンラインで生の言葉に触れ得るのか、というのは、今もまだはっきりとは分からないところです。

しかし、いくらかは、その人からしか出てこないような言葉に触れられたのではないかと思います。

最近は、特に、生の言葉、電話やオンラインを介した言葉、配信で聞く言葉、マスメディアから流れてくる言葉、こうしたFBなど、SNSに投稿される言葉(これもそれぞれのSNSのフォーマットによって、質が異なります。)、それぞれの、言葉の質感の違いに、戸惑うことが多く、どんどんSNSから遠ざかってしまう感じがあります。

今ここに、こうして置いている言葉が、どのように伝わるのかも、よく実感出来ません。

集会を終えてみて、そういえば、わたしは、30年くらい前から、折に触れ、公開のシンポジウムや集まりで、司会や進行のようなことをずっとやって来た感じがあるのですが、昔そういう場で、自分が振舞って来たあり方と、最近は随分異なって来ているように思います。

なぜ、そんなことをし続けているのだろうと思うのですが、それが、最近は、より生の声に触れたいという面にあるように思います。

これからも、オンラインで行わなければならないこともあろうかと思いますが、あるいは、配信という判断もすることがあるかも分かりませんが、その際も、ともかく、そこで語られる、話される言葉を、出来るだけそのまま聞くということをやって行きたいのだと思います。

改めて、ありがとうございました。

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