対話はケアか? 明日6月1日(日)は【ごちゃまぜ 人間の会】です。
皆様
こんばんは。
今日は風が強かったですね。
祖母の47回忌でお墓参りをいたしましたが、意外に寒い1日でした。
今年は、夏至の日に何か少し違ったことが出来ないかなと思って、
夕方から遅くまでとある方と打ち合わせをしておりましたが、
これは今年には実現出来そうになく、またいつの日にか、何かにつながるといいなと思います。
明日から6月で明日は【ごちゃまぜ 人間の会】です。
ぜひ、ご参加ください。
遅い時間になってしまいましたので6月のスケジュールはまた改めてお知らせいたします。
◆【ごちゃまぜ 人間の会】(6月)
日時:2025年6月1日(日)13:30〜16:30
場所:津センターパレス 津市市民活動センター地下1階 研修室
呼びかけ人:西脇秀典・松田愼二・佐藤竜
先日、リモートである会の振り返りをしていて、
わたしは、文章から感じるのと、直接(この場合リモートですが)話をするのとでは、
随分、感じが違うことを指摘されました。
確かに、どこか、ご案内の文章の場合、出来るだけ、ぎりぎりの地点まで言い切りたい、
という思いは強いかもしれません。
やはり、間の会は、存在全体に関わることなので、
そこにどういう心構えで臨むのか書いておきたい面はあります。
それによって、かえって来にくくなる方もおられるかもしれませんが。
今、伝えたいことは、なるべく書いておきます。
近年、対話という言葉が、ケアなのだという文脈の語り口が多く目に留まります。
どうもこれが居心地悪く、対話という言葉をあまり使いたくなくなります。
これも思い込みかもしれませんが、
ケアと言われると、どうしても非対称的な関係に感じてしまいます。
対話の当事者同士が、ケアなどと言っている場合でしょうか。
対話であろうとするのであれば、徹底的に対等でありたい。
なんなら、対話であるためには、最も忌まわしい敵と対峙するとか、
話すことすら避けたいような相手と相まみえることだって必要だろうと思います。
これは、楽しんでいたらいけないということではありません。
そのくらいの気概でちょうど対等に対峙し得るのではないかとも思えます。
治療であれ、癒しであれ、対話が、人を操作することに使われないことを願います。
人間同士、どこまでも対等(共に人間なのですから)であることに、
もっともっと出来ることがあると思います。
以上の件、すべてお問い合わせ、ご連絡先は、
● メール:aidanokai2015@gmail.com 間の会 西脇秀典です。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
2025年5月31日 間の会 西脇秀典
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前回の【ごちゃまぜ 人間の会】では一枚も写真を撮らなかったのと、今日もお墓の写真しかなかったので、最近ご近所で撮ったランタナの花の写真です。
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