【からだを見合う実験室】第二弾!(ゲスト:大崎晃伸さん)のご案内
【からだを見合う実験室】第二弾!(ゲスト:大崎晃伸さん)のご案内
以前より案内いたしております【からだを見合う実験室】第二弾!について、改めてお知らせいたします。来週の土曜日です。
大崎さんからもコメントをいただいております。それに応答する形で新たに案内を書きました。全体では長いですが、ご関心のある方は、お読みいただければ幸いです。
10月9日に1回目を行いましたが、これが滅法面白かったので、第二回目が決まりました!いつも【月々の間の会】を行っている贄崎地区防災コミュニティセンターで、関東から来られるダンサーの大崎晃伸さんと再び【からだを見合う実験室】という企画を開催します。短いインターバルで2回目が決まりましたが、なかなかない機会であることに変わりはありません。今回は、午前、午後と1日かけて行います。ダンサーの方に来ていただくと言っても、何かダンスをしなければならないということではありません。それぞれ、互いに、テーマを決めたり、決めなかったりして、立って、あるいは、座っても、寝転んでもいいですが、一定の時間、動いてみたり、動かなかったり、いたいようにいてみて、そのからだの様子とか、佇まいとか、見てみます。それで、何か感じたこととか、面白かったこととかを伝えあったり、こんなことしてみたらどうだろうかとかと提案してみたり、とにかく、何でも思いついたことをやってみよう、提案してみようという会です。それぞれ、人のどんな様子を面白いと思うのだろうか、人の様子を見る時に、どんなことを見ているのだろうか、そんなことに興味のある人で集まって、色々実験したいと思います。ダンスの経験とか、全く問いませんし、舞台に立つこととか、そういう経験も関係なく、こんなことに興味のある方、からだを動かしてみたい方、何となくピンと来たら、どなたでもご参加可能です。ただ、積極的に、その場に関わってくれる方を募集します。
◆【からだを見合う実験室】第二弾!(ゲスト:大崎晃伸さん)
●日時:2022年11月5日(土)10:00〜16:30(12:30〜13:30 お昼休憩)午後からの参加も可能です。
●場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター 2階集会室
●参加費:午前、午後、どこからの参加でも500円
※参加希望者はお申し込みください。
※アクセスについては、一番最後のところをご参照ください。
※そして、今回は、土曜日です。お間違えなきように。
大崎さんからコメントをいただいたので、以下にご紹介します。
例えば、ダンスの稽古場で、先輩や先生から、「膝が曲がってるよ」と言われることがあります。自分では伸ばしているつもりなのに、です。
自分ではやっているつもりなのに、体はそうなっていない。意思と体に表れる実際が異なることはよくあることだと思います。言い換えれば、「こう見せたい」という希望通りに、体をコントロールして見せることは、簡単なことではないと思います。
「膝が曲がっている」などの、形の話はまだわかりやすい。「情熱的な体を見せたい」みたいな感覚的なことは、伝えるのがさらに難しいはずです。
パフォーマー(表現する人、動く人)が見せたいと意思したものを観客(見ている人)に伝えるのが難しい理由のひとつは、当たり前のことかもしれませんが、観客の側の(パフォーマンーからは独立した)感覚や見方があるからです。
パフォーマンスする人は、パフォーマンスをしている間、「これをしたい」「これを見せたい」と思ったり、そうでなくてもさまざまなことを感じながら、パフォーマンスしているはずです。
しかし、見ている人にはそれはどう見えたのか。見ている人の感覚は、おそらく私たちが思っている以上に多様です。そして、さらに、言葉の使い方も人それぞれ違います。
ですから、見えたものを言葉にして伝えるというときに、思ってもみなかった言葉が投げかけられることがあると思うのです。
このワークショップでは、伝えたいものがきちんと伝えられることを目指したいとは思っていません。それぞれ言葉を出し合って、答え合わせをしたいわけでもありません。
それぞれの言葉を受け取りながら、体を見る言葉、体を表現する言葉を豊かにしていきたい、というのが僕の目標です(体だけではなく、「音」や「空間」や「雰囲気」や「関係」を表現する言葉も変わっていくかもしれません)。
そして、このワークショップを通じて、他者の体をじっくり見ることのおもしろさに、僕自身目覚めていけたらいいなと思っています。
以上が大崎さんからのコメントでした。
それを受けて、西脇が思うことを以下に書きます。
人(他者)に見られるということは、どういうことなのでしょうね。見られるというのも、様々な見られ方があります。観察される、凝視される、目撃される、ぼんやり眺められる。
そして、その「見られる」も、それを「見ている」人によって捉え方はまちまちです。同じ自分が見られていたとしても、それは見る人からは、見る人に写る景色としてしか見えないので、それぞれ異なっていることと思います。ここで言う他者とは、誰のことでしょうか。自分自身は、自分のことが見えず、他者に見られることによって、初めて見られた自分は立ち現れます。そして、それは、様々であるわけです。
ここで、自と他という風に分けましたけれど、自と他と言っても、必ずしも、他の人だけが他者であるかというと、ここで見られている、わたしの姿や、からだは、わたし自身から見ても実は、わたしから見えている、姿やからだであって、それ自体、わたしにとっては他者であるともいえます。
自分自身のからだで、見える部分もあるし、からだを動かしたり、感じたりする場合、何らかの軌道のようなものは恐らく体感として「見えて」いるのですが、それは、単にわたしに見えているだけに過ぎず、それが、他の人に見えているようにあるのか、動いているのかという点については、その「見ている」他の人に確認しないと分かりません。そして、確認するには、主に言葉によって確認する、あるいは、見えた様に動いてもらうなどするしかありませんが、それで、実際に、からだがどうであったか、どう動いたか、確実に確認出来るわけでもなく、ある意味、誤伝達、誤情報として、互いに、様々な誤差を含んで伝え合うしかありません。わたし自身は、取り替えが効かなくて、わたし自身も、自分のからだについて、確実にこうだということも言えるわけではなく、わたしとあなたとの間に、立ち上がってくる姿こそ、もしかしたら、わたしやあなたの手におえない、コントロール出来ない、意のままにならない、しかし、より明白な「わたし」の姿かもしれません。自他といった場合、自他の境とはどこにあるのでしょうか。はっきりと、これが自で、これが他だと言えるでしょうか?自と他と言う場合、ここに、「と」があります。「と」は、境があるのか、ないのか、はっきりとは分からなくとも、そこにもしかしたら、何か、互いが、互いである、そして、共にあるから、互いである、何かを立ち上がらせるものかもしれません。
からだが動くとか、動かないとかに関わらず、この世はいささかも止まってはいません。止まっているように思えるのは、どこかで、それを固定的に見ようとする計らいが働いているからではないでしょうか。
そういう止まっているように思える世界のことを、「わたしだけの世界」と呼ぶことが出来るように思います。「わたしだけの世界」も空想の世界としては動的です。しかし、空想は空想であり、実際に動き出し、踊り出すのは、あなたに見られるからです。あなたに聞かれるからです。あなたに触れられるからです。
あるいは、激しく動いているものが止まっているように見える時、そこにある種の踊りや舞いが生じている場合もあり得ます。その時、見ている者の中には、何かとてつもない出来事が起こっているのではないでしょうか。しかし、これも、止まっているように見えるものと、それを見ているものとがあって初めて生まれる出来事です。
葉っぱが舞い踊ったりするのも、葉っぱそのものが葉っぱの世界で舞い踊っているわけではありません。
それを見る者がいて、初めて舞い踊るわけです。
舞い踊ると言うのは、自と他の世界の現象です。
この【からだを見合う実験室】を行うのは、「自と他」の世界のことだからで、これは、やはり「間の会」の本質の部分です。
自と他の世界が舞い踊るのを目撃するのに、ダンサーである大崎さんに来ていただくのは、大崎さんが、
「自分ではやっているつもりなのに、体はそうなっていない。」ということを徹底的に自覚されておられるからです。これは、自分が踊っているつもりになっているわけではない、本質的に、世界が舞い踊ることを希求しているダンサーの言葉です。
大崎さんは、
「伝えたいものがきちんと伝えられることを目指したいとは思っていません。それぞれ言葉を出し合って、答え合わせをしたいわけでもありません。」と書いておられます。
これは、意のままにならない、伝わらないことを恐れない、世界の謎に対して直面している、存在そのもののダンサーの言葉だと思います。
先日、いつも【ごちゃまぜ 人間の会】を共に主催している松田さんが、「『からだを見合う会』はどうやった?」と、この会に関心を寄せて尋ねてくださいました。松田さんは、脳性まひと頚椎損傷でからだを動かすことができません。そんな松田さんが関心を寄せてくださって、とても嬉しく思いました。わたし自身、からだを自由自在に動かすようなことに関心を持っていないからです。からだが動く、動かないに関わらず、世界は、舞い踊り出すのです。そんな瞬間のドキドキ、ワクワクを知ってしまっているのです。
そして、見られることによって、わたしが見ている自分のからだも変容し、空間になっていくことを知っているからこそ、人目に晒されようとしているのです。
一目に晒されると言うのは、時に嘲笑されたり、好奇の目で見られたり、必ずしも、愉快なことばかりではありませんが、それ以上に、その喜びをも知ってしまっています。
「わたしだけの世界」より、「わたしとあなたの世界」の魅力に取り憑かれているのです。
そして、その魅力に取り憑かれると、その世界へ、他の人も誘わずにはおられないのです。
いざ、ご一緒いたしましょう。
もう少し追記いたします。
これは、ダンサーや表現者の方からは、抵抗のある表現かもしれませんが、見る=見られる、の舞台構造(劇場とは限らない)の中で踊りや舞いが起こる時、それを、成しているのは、ダンサーや表現者など、舞台に立っているものだけではありません。それは、見る者と、見られる者によって成されているのです。見る=見られる関係から生じる出来事なのです。
どちらが主体で、責任があるとかいうことではありません。逆に言えば、見る側にも主体や責任があります。
これは多分、割と粛然たる事実ではないかと思っています。
それが、劇場空間などでは、少々分かりにくくなっているのです。
こうしたことは、日常でも、多々起こります。多くの場合、感動してもそれを何かのせいには致しません。
しかし、こうした、見る=見られる、から起こる出来事をじっくり味わってみたいと言うことが、
何より、この実験室には、あると思います。
それは、ワークショップと言っても、何かの技術の習得のための訓練、練習などではなく、
この場自体が、舞台そのものだと思います。
日常と地続きの非日常であり、そこには此岸と彼岸が同時にあるのです。
大崎さんと、わたし(西脇)のプロフィールです。
大崎晃伸
ダンサー。
30歳でダンスをはじめる。黒沢美香に師事。これまでに、黒沢、余越保子の作品に出演。場との交感を大事にしつつ、クールで熱いダンスを目指している。芸能の継承に関心があり、自身も能楽を習う。1984年生。東京出身。
西脇秀典(にしわき ひでのり)
間に着目しながら、対話や、集うこと、そこにあることやないことの味わいを探究する場を開いている「間の会」代表。また踊りや舞のような、しかし、そう呼ばれる以前の未だ名付けられない行為と存在の有り様を、折々の様々な場所との間に奉じている。世界という舞台構造の中で、そこに現れてくるものを見、聞き、それらから見られ、聞かれている。
重複するような内容も多いのですが、前回載せた案内の文章も最後に載せておきます。
「からだを見合う」のですが、実際のところ、そこに何かが起こる場合、それは、からだに起こっているのか、あるいは、見ている者は、「からだ」を見ているのか、これは、結構謎です。
からだに現れてくるということもあるでしょうし、空間が何か変化するということもあるかもしれません。ともあれ、そこにからだを晒す、晒されるということに変わりはありません。通常、わたしは「間の会」で「あいだ」を重視してはおりますが、「あいだ」とは、見えるものでしょうか?
大崎さんとオンラインで打ち合わせしていた時に、「ダンサーの自意識が感じられると見ていられない」という意見をよく耳にするという話が出ました。これは、両者ともに似たようなことを、よく聞いています。しかしながら、この「自意識」とは何でしょうか。それは、実際に見えるものとして現れるのでしょうか?また、どうして、それが感じられると見ていられないような気になるのでしょうか。これはとても不思議なことだと思います。先日、「ごちゃまぜ 人間の会」で、参加者の方が「笑わせるのは苦手だけれど、笑われるのが好きなんです。」と言ってみえました。それ自体は、そのままでしょうけれど、実際のところ、笑わせるのも難しいですが、笑われたいと思っても、笑われるとは限りません。どう見て欲しいかというのは、なかなか意のままにはならないものです。
当たり前ですが、自分自身から見えているのは他の人で、自分自身の姿は、他の人から見られているのであって、自分自身では見えません。自撮りとか、鏡で見る自分は、それは、映像に過ぎません。
見ると見られるという関係のことを、ずっと探究しているものですから、人が姿を晒しているのを見るのは好きなはずですが、私自身、舞台でダンサーの人の踊りや発表を見る時に、何か言いようもなく全く面白くない時が多々あります。これは何故なのか、とても気になります。ダンサーの力量とかの問題ではないのではないかと思います。恐らく、見る側の方にも、何らかの責任もあるような気がします。その場がどのように出来ているのかということも要因の一つでしょう。日常で出会う人の姿の方が、よほど面白いということが、実際、多々あるのです。この【からだを見合う実験室】では、ただ、何度でもやり直しがきくという意味ではなく、互いに、つまらない、響いてこない、何も見えてこないものは伝え合い、見る者と見られる者の、真剣勝負の共犯関係を作っていきます。実験ですが、これは、そういう本番の舞台だとも言えます。
劇場空間では得られない、見ると見られるが相互に入れ替わって、その間から立ち現れるものを、その場で、心置きなく、探究してみましょう。
ダンサーと名乗っておられる方は、あるいは役者さんもですけれど、何を思って、何を求めて、人前に立っておられるのでしょうか?そうしたことも、とても興味深いことです。
また、人前になど立ちたくないという方も、人に見られているということには変わりがありません。自分の振る舞いとは、どんな風に見えているものなのか、そういうことに関心のある方にも、ぜひ、ご参加いただきたいと思います。
以上の件、すべてお問い合わせ、ご連絡先は、
● メール:aidanokai2015@gmail.com 間の会 西脇秀典です。
2022年10月29日 間の会 西脇秀典
アクセスについてです。
最初から参加の方は、津駅前(東口)から空港アクセス港(津なぎさまち)行き9:27分発のバスにお乗りください。
空港アクセス港(津なぎさまち)に、9:39着で、そこから徒歩5分ほどです。
また、ご希望であれば、津駅集合で車に乗り合わせて行くことも可能です。
午後から参加希望の方は、津駅前(東口)から天白行き12:27発のバスにお乗りください。(なぎさまち行きは、この時間帯はありません。)12:38岩田川着で、そこから徒歩10分ほどです。ご連絡いただければ、迎えに行くことも可能です。ご相談ください。駐車場も、あまりありませんので、こちらも事前にご相談ください。お昼ご飯は、各自ご用意いただくか、お昼休みに近くのコンビニ、スーパーなどに買いに行くことも出来ます。近くに喫茶店もあり。
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