オンライン間の会「をちこちの間」のご案内
皆さま
こんにちは。
それにしても大変な暑さですね。ここ数日で時々、やや秋の気配も感じることがありますが、まだまだ油断出来ません。
まず、明日8月23日(日)は、予定通り、「月々の間の会」を行います。
いつも通り、どなたでもお待ちしております。
そして、来週、8月26日(水)に、
以前集会というのは行いましたが、初めて、オンラインで間の会を行います。
◆オンライン間の会〜をちこちの間(ま)・・・オンラインで会うことは出来るだろうか?または、オンライン・ミーティングにおいて、わたしとあなたの間には何があるのでしょうか?
日時:2020年8月26日(水)20:00~22:30
方法:Google Meet(要申込・定員5名)
問い合わせ、申し込み先:aidanokai2015@gmail.com
面識のある方でも、ない方でも、どなたでもご参加いただけます。
参加者はお一人からでも開催します。
参加費の設定はありません。間の会の活動に対するご寄付は募っております。
また、開催までに、Google Meet の利用実験にご協力いただける方も募集しております。
少しタイトル(というか副題)が長いですが、
「をちこち」は、「彼此」、Near & Far です。
あちらこちらでもあるし、将来と現在でもあります。
何度か、オンラインで、何人かの人と話をするということを、これまでにやってきて、確かに、不思議に、そこでは、遠くの人も近くの人も、ある集まりが生まれているのですが、まだ、わたしは、その集まりが何なのか、よくわかっていないです。
電話なども、日常から普通に使うのですけれど。
電話の声も、やはり実際に会う声とは、少し違うものとは感じています。
なので、副題にも問いが二つもついていますが、それについて考えるというより、そういう問いは拭えないなあという印象です。
やはり、わたしとしては、基本は、直接会うことです。
とは言え、元々、頻繁に県外などにも出かけていましたが、3月後半以降、比較的遠くまで出かけたのは、一度だけでしょうか。特に都会に関しては。
わたしが、高齢の両親と同居しており、母も肺に既往症があるので、近所での開催は、ある程度対策を取りつつ継続して行なっていますが、人の多いところには、出かけるのを控えています。
遠方の方と会えなくなってしまったのも、そうですねえ、遠方の方と会うというのは、ある、実際に物理的な移動も伴いますから、それだけのエネルギーがいることなので、それを、楽して端折りたいというわけではないのですが、ご近所の方でも、わたし以上に、人と会うことに慎重になられている方もおられますでしょうし、オンラインで会う、声を聞く、顔を見るということで、何が出来るか試したい感じです。
試したいと言っても、行うことは、皆、その時限りの即興本番には違いありません。
開催方法は、Google Meet を使用します。Google Meet
は、PCのブラウザからご利用になる場合、対応していないブラウザがありますので、ご注意ください。ちなみに、なぜか、わたしが普段使っているPCのSafari
では使えないので、使用する時は、Chrome を使っています。
Zoom の方が慣れているのですが、有料になってしまうので、Google Meet でやってみます。
メールまたは、メッセンジャーなどからお申し込みください。
お申し込みいただいた方には、受付完了メールをお送りします。その後、開催日時直前にURLをお送りいたします。
参加にあたっては、カメラとマイクは共にオンの状態でお願いいたします。
これは、また次号の間の会のお便りにも繰り返し書くかもしれませんが、8月のこれまでに行った、「問ひの間」と「お盆の間の会」は、とても、いい時間でした。
「お盆の間の会」は、猛暑の中結局4時間に渡って行いましたが、
「一人では味わえない夕暮れですね。」との言葉が残ります。
「問ひの間」では、「重いテーマですね。」という言葉も出て参りました。
実際、空間としてはさほど密ではなかったですが、大変濃密な時間でした。
テーマの設定を問いの形にしたのは、わたし自身、ここでは、例えば、「哲学カフェ」のようなものより、少し踏み込んだものにしたかったということがあります。
これは、これまで、間の会でやってきた「街角井戸端会議」と似てはいるのですが、「街角井戸端会議」では、問いを紙に書いて、人通りのある公開の場でやるというものでしたが、「問ひの間」は、仕切られた部屋ではありませんでしたけれど、その場にいる人でやるという形になりました。
しかし、「問い」というのは、ある種の暴力性もあるもので、テーマに掲げた「問い」に、何度も立ち返って行くということも出来たのですが、あくまでも、「問い」は、この集まりに、添えられたもの、置いておくもの、くらいの位置付けにとどめました。
今回は、「その責任をどうしますか?」というのがテーマでしたが、そういうテーマを置いて、集ってみて、何か、そのテーマを集まった人みんなで考えるというのとは、ちょっと違うように感じました。
「責任」という言葉の、辞書的な意味や、学術的な意味、歴史的な意味などを考えるのでもないし、思想、概念としての「責任」について、考えるわけでもありません。
それは、本を読んだり、研究をしたり、して考察して行くものでしょう。
また、議論するということとも、やはり違うように思います。
今回は、やはり「その責任」ということが大切でした。
そこでは、複数の人が集まって、対話をしながら、「みんなで考える」のではなく、「一人一人が考える」ということになっていたのだろうと思います。
責任という言葉には、ある一定の辞書的な意味はあるわけですが、そこで、一人一人の人から、発せられる「責任」という言葉から、立ち現れてくる景色は、本当に、一人一人全く異なっていました。ある人は、中学生の頃の関わりのあった人たち、ある人は、小学生の時の先生のこと、ある人は、現在の家族や、学んでいることとの関わり、それぞれに、見ている景色が全く違います。
これは、わたしにとって、とても新鮮であり、懐かしい、とても安心出来る風景でした。
ある言葉、ここでは「責任」ですが、この「責任」という言葉は、何か大事なものが入っている器のようなもので、辞書的な意味は、その器の形に過ぎません。その中に何が入っているかは、それぞれが語り出さないと見えてこないのです。
まるで、アラジンと魔法のランプのように、その器の中から、びっくりするようなものが現れてきます。そして、それは、それを話す人によって全く姿が違うのです。
そして、その言葉という器は、何が入っているにせよ、大切に受け渡ししていかないと、壊れてしまうかもしれません。
これは、議論やディベートでは出来ないことだなあと改めて、思いました。
オンラインの声は、確かに生の声とは違いますが、こうした、その人その人の景色が立ち現れてくるだろうか。という、そのことを、楽しみにしています。
是非ともご参加ください。
最後までお読みいただきありがとうございました。
2020年8月22日 間の会 西脇秀典
●メール:aidanokai2015@gmail.com
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