『2020年3月11日を共に過ごす』を行なって。

FBに3月12日に投稿したものです。もう随分前のことのように思えます。

どなたでも読めるように、こちらにも転載することにしました。


こんばんは。

昨日、『2020年3月11日を共に過ごす』を執り行いました。

関心を持ってくださった方、配信したご案内のメールをお読みいただいた方、ご案内のメールを受け取っていただいた方、皆さん、誠にありがとうございました。

少しご報告をさせていただきます。

特に事前の申し込みはなく、現地に集まったのもわたしだけで、他に現地に来られた方はみえなかったので、途中参加の方の可能性も考慮して、会場にて、所定の時間を過ごしました。

最初と最後にご挨拶を申し上げました。

途中、休憩の時間を何度か挟みました。

ともかく、『2020年3月11日を共に過ごす』ということをやりました。

自己満足のようにも見えるかも分かりませんが、わたし自身は、特に満足しているわけでもありませんし、満足ということとあまり関係がないように思います。

わたしは、その場にいない人とも、「共に過ごす」ということをしたかったですし、亡くなられた方とも、共に過ごすということをしたいと思っていました。

わたしにとって、3月11日という日は、とても大きな出来事が起こった、毎年やってくる大切な日というだけで、この日付なり、数字なりは、何も象徴していません。

また、この数字に何かを象徴させることには、違和感があります。

この日に大きな出来事があったわけですが、そして、多くの方が亡くなられたわけですが、しかし、この日の出来事に関連して亡くなられた方は、その後も後を絶たず、ご命日は一様ではありません。

また、まだ、行方不明の方もたくさんおられます。

なので、追悼や慰霊という言葉も、まだ使うことが出来ません。(鎮魂もでしょうか。)

自分が、今出来ることとして、一定の時間、「共に過ごす」ということだけ、やってみました。

出来たかどうかは分かりません。

途中、黙祷の時間を設けましたが、実は、黙祷というのも、わたしは、出来ているのかどうか、分かりません。

祈るということ自体、どうしたらいいのか、分からない部分もあります。

わたしに、ご縁をいただいております、浄土真宗のある宗派では、祈るということや、祈るという言葉を、してはならない、使ってはならないということを、言われる場合があります。

それは、わたしにとって、とても苦痛なことですが、まだ、今でも、そこは分からないままです。

しかし、最近は、祈ることを、自分に禁じることはやめました。

黙祷の他に、ご案内の中で、ご紹介した、瀬尾夏美さんのご著書ほか、古井由吉さん、若松英輔さん、鴨長明さんの著書から、それぞれ、一節を、声に出して、読みました。

やってみてどうだったかというのは、よく分かりませんが、やるより他にありませんでした。

静かな時間でした。

静かな時間でしたが、色々な音に耳を澄ませていました。


間の会 西脇秀典

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