明日9月28日(日)は【月々の間の会】です。 呼応がこの世とあの世のすべて。
皆様
こんばんは。
昨日でお彼岸が明けました。
随分涼しい日が増えてきましたね。夜風が気持ちよく、よい季節ですが、
こういう季節の変わり目にわたし自身はからだを壊しやすく要注意です。
明日は【月々の間の会】です。
今月最後になります。河口付近もよい風を浴びられることでしょう。
ぜひ、ご参加ください。
◆【月々の間の会】
日時:2025年9月28日(日)13:30〜16:30
場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター
今月は随分あちこちに行きました。
とは言え、それが自分の意志なのかどうかよく分かりません。
運ばれた、という感じでしょうか。
行ってみないと行けるかどうか分からないのです。
昨日も今日も予定していたところには行けませんでした。
特にそれが問題だとも思いません。
お彼岸の間、色々な人の声が響いてきて、まなざしを感じました。
命も人生も、からだも、想念も、意のままにはなりません。
世の中には意のままになることもあるにはあるでしょう。
しかし、大切な、肝要なものは、意のままにならないのです。
すべてを意のままにしようとすると、
それはすべてをコントロールしようとしているようで、
かえって、コントロールされてしまっています。
往々にして、人は目的の奴隷となります。
何もかも意のままにならないと言ってしまっては、
責任を放棄した態度ではないかということになります。
責任というのはよく分からない言葉ではあります。
責任を取るという場合の責任と、
責任を負うという場合の責任は、実は別のことだったのではないかとも思います。
いずれにせよ、自分だけでは、何も完結しないのです。
死んだら死んだで、自分というものはなくなり、わたしは、わたしからは働きかけられない存在になります。
自分と自分ではないものがありますが、自分ではないものは他者とイコールではありません。
自と他は、同時にあって、初めて自他であり、どちらが先というわけではありません。
他者がなければ、自分などというものはありません。
そしてまた、自も他も、意のままにならないことにおいて、共にあるわけです。
意とは、どこにあるのでしょうか?
区別することと、区別しないことは、何が違うのでしょうか。
何かが呼んでいて、何かが応えます。
呼応がこの世とあの世のすべてです。
何も起こらなければ、何もありません。
ただ愚直に辿るという応えもあります。
呼応も幻かもしれませんが、厳密には、虚実を区別することは出来ません。
縁というのは、そういうものではないでしょうか。
雲をつかむような話ですが、わたしはわたしだけで存在しないので、
常にあいだに生きています。
それは本当に楽しみで、漲ってくる何かです。
明日も楽しみにしております。
以上の件、すべてお問い合わせ、ご連絡先は、
● メール:aidanokai2015@gmail.com 間の会 西脇秀典です。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
2025年9月27日 間の会 西脇秀典
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