【間の会のお便り】2023年5月1日を掲載します。
皆様、こんばんは。
久しぶりに【間の会のお便り】を発行いたしました。
全体は、とても長いです。(前文以外は郵送版と同じです。訂正箇所はあります。)
スケジュールの部分は一箇所にまとまっています。
間の会、直近は、
5月11日(木)の【ご縁の間の会 万松山 専琳寺さまにて】です。
ぜひ、お越しください。
また、9日(火)には、三重大学のゼミで間の会を行ってきます。
お便りを発行した翌日、まだ一周忌にもなっていないのですが、父の納骨に行ってまいりました。
母と弟と、かつて父と母が行ったところを巡りました。
時の流れに追いついていかない感じもあります。
父がお世話になった事業所のお手伝いのアルバイトをこの春までさせていただいていましたが、四月の頭に、そこの所長さんと二日間に渡って話し合いましたが、所長さんが求めるようなペースで車での配達をすることは、私の技量では危険を伴うため、それは出来ないと申し上げましたが、出来ないと言ってしまうと出来ない、出来ると言えば、出来るようになると仰られ、平行線のままになってしまい、昨年から毎日必死で配達速度を上げてきましたが(必死すぎた面もあります。)、そこでこのお仕事は唐突に終わりになりました。何故、そのようなことを言われるのか、納得できるところまで聞けませんでしたが、雇用関係は、突然、切れてしまいます。父の納骨まで続かなかったですが、果たして供養になったのでしょうか。人手が足りないということで、一定の期間、中継ぎを果たすことは出来ましたが、父の供養という方にまだ比重があり過ぎだったのでしょうし、人手のお手伝いという意識が抜けなかったようにも思います。しかし、アルバイトを辞めて、より忙しくなっています。私が今生で主として行っていることは、なかなか対価という形にはつながらないですが、報酬を得られないからやらないという類のことではありません。どうやって生きていくのかは自分でも未知のままですが、本道を歩んでいくほかないのだと、改めて腹の据わる思いです。多分、そのようなことが、このお便りの文章に反映していると思います。お読みいただければ幸いです。
【間の会のお便り】2023年5月1日
とても美しく、しかし、少しそわそわする季節ですね。
皆様、いかがお過ごしですか?久しぶりにお便りを発行します。
昨年10月に津で始まった「からだを見合う実験室」について、お便りで触れていなかったので、それについても再掲します。
1、ご縁の間の会 万松山 専琳寺さまにて
日時:2023年5月11日(木)、6月8日(木)13:30〜16:30
今年の予定では、後は、7月6日(木)、8月17日(木)以外、第二木曜日です。
場所:津市大門 万松山 専琳寺(津観音の東、立町商店街を抜けたところ)
2、月々の間の会
日時:2021年5月28日(日)、6月25日(日)13:30〜16:30
※今年も場所が取れない場合や例外を除き、基本は第四日曜日になります。
場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター 2階集会室
3、ごちゃまぜ 人間の会
日時:2023年6月11日(日)13:30〜16:30
場所:津センターパレス地下一階 津市市民活動センター 研修室
呼びかけ人:西脇秀典・松田愼二
4、間の会 夏至の祭り
日時:2023年6月21日(水)日没前後
場所:未定
◆間の会主催以外の推奨の催し◆
【からだを見合う実験室】
日時:5月21日(日)13:30〜18:30(東京開催)
6月17日(土)12:30〜17:30(京都開催)
世話人:大崎晃伸、西脇秀典(東京・予定)
古川友紀、大崎晃伸、西脇秀典(京都・予定)
場所:お問い合わせください。
参加費など:場所代カンパ、申し込みが必要です。定員あり、世話人含め10名まで
◆番外編:西脇秀典主催・即興舞踊・座守◆
舞台と座『五月』
日時:2023年5月14日(日)18:00〜21:00
場所:ギャラリー紅梅(津市八町 2-8-38)
参加費:1000円(介助者、付き添い:無料)
※要申し込み(西脇まで)
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間の会は存在の伎芸です。
無能の芸と言ってもいいかもしれません。
存在は個性や技術よりはるかに豊穣で重層的です。
できるとか、できないとか、能力のある、なしとか、知識のある、なしとかの、一切関係のない、究極の素人道楽であり、命がけの遊楽であります。遊び半分では成り立ちません。
あらかじめ決められた作法も形もなく、何も身につけられるようなものもありません。
ただ、いるということのみで成立します。
この道楽の道は、どこまでも底なしに深く、果てしなく探求できるものです。
この世の誰もが、いつからでも始められるものです。
できる、できないに関わらず、やりたいとか、やりたくないにも関わらず、いるか、いないかのみです。
恐ろしいほど空虚で意味がなく、しかし、一切の虚飾のない、空そのもので、これほど、面白く、楽しく、血湧き、肉踊る、いのちの祭典など、世間や、公共や、社会などの漠としたものにはあり得るはずもないものです。
人間とは、とか、人とは、などという大まかなことを問うのではなく、ここ、目の前に対峙している、他の何者とも取り替えの効かない「あなた」と「わたし」という、一切の一般論や普遍化を退けた「あなた」そのものと、「わたし」そのものだけが、間の会の根幹です。
取り替えの効かない「あなた」そのものや、「わたし」そのものとは何なのか。
今その時、その場でしか、それには触れられません。
公平、公正とか、平等とか、権利とか、法とか、理念や制度の出る幕はありません。
「弱者」とか「強者」とか「マイノリティ」とか「マジョリティ」とか、「あなた」と「わたし」そのもの本体に触れることを妨げるような概念は「ここでは」不要です。
剥き出しの「あなた」と「わたし」には「あいだ」しかありません。
怪力、強靭、聡慧、博覧強記、富裕の徒も、無知、無力、無能、病弱、貧困の徒も、その存在全体で、仕合うしかなく、予想もつかない真剣勝負です。
「分かり合えない」と頭で考えている場合ではありません。
互いの「いる」ことを賭けての仕合いです。
何の意味があるのか、何の役に立つのか、という話では全くありません。
一切無目的であり、何の役にも立たない、何のためでもない、ただ、生きるという渇望そのものです。
あなたがいるから、わたしがいる。
わたしは、わたし単独では存在しない。それは、死ぬも生きるも一人でしかないことと裏表。
ただ、それだけ。
なぜ、あなたはあなた以外のものでないのか、わたしはわたし以外のものでないのか。
ただ、そこには非情な全肯定あるのみです。
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◆友人と長時間対話していて、その直後に浮かんできた言葉を載せます。
仲良しになろうとする人がいる限り、この世は戦場だ。
戦時下の今、戦場に送られたらどうするか、とか、戦場に送られないには、とか、思考実験している猶予はない。
目の前の人とどう切り結ぶのか。それは、集団にならないこと、人を集団と見ないこと。
個人主義で、孤独を愛する、と言う人が、何故か時に、仲良しの甘言に脆弱で、他者を集団と見がちだったりする。
独りよがりの孤独に淫しない、仲良しになることを目的にしない、それが、この集まり、伎芸の最低限の節度だ。
戦場たるこの世で、切磋琢磨するには、一人では一人になれないことに直面する他ない。
わたしもあなたも、どこまでも一人でしかない。一人でしかないから、対峙すると際が立つ。
わたしはわたしだけではわたしではない。では、わたしとは誰なのか。あなたとは誰なのか。戦場であいまみえる時、そこに、仲良しの余地もなく対峙する時、この世の戦場で、初めて、わたしも、あなたも活きる。生き始める。あるいは死ぬ。死ぬも生きるも一人。仲良しの力学に委ねて、集団になってしまうのは、人間の放棄である。
いじめも、ハラスメントも、ファシズムも、戦争も、このようにして生まれる。
数に数で対抗しない。一人は数ではない。
数は数であり、概念であって対峙するものではない。数になったら仕舞いである。法律も社会制度も数を集めないと出来ないのだが、わたしはそこにエネルギーを避けない。そんな猶予がない。人を数と見做すことが、戦争の本体であって、それが戦時下であれ、人を数と見做すことを放棄しなければ、どこにも人はいなくなってしまう。武器を放棄するより、こちらが本丸だ。数の力で、体制を変えることに、わたしは与しない。そんな時間もエネルギーもない。目の前の人と、身一つで対峙すること、これが、わたしに出来る、全力の全身全霊の生きることだ。人によって優先順位があるだろう。わたしには、わたしが、この世にいる限り、最低限のどうしてもやらざるを得ないことは、それしかない。そんな思い込みも捨てたい。ただの身一つだ。
しかし、身一つを投じ続け、人と相対峙するのは、日々命がけである。
この世を戦場でなくするにはどうしたらいいのだろうか。それは目的なのか、答えはあるのか。
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◆「からだを見合う実験室」のメール案内文として書いたものに加筆し、再構成して掲載します。
「人は皆、表現者」という言い方を最近は、時々聞きます。
全くそう思わない人もいるでしょう。
また、そうは言うものの、それは建前に過ぎなかったり、単に希望や願望、可能性を語っている場合もあります。
しかし、わたしは、「人は皆、表現者」と、言い切っていいように思います。
しかしながら、そうであることを遮る、妨げる要素はあると思っています。
受け取りにサインをする。紙の切れ端にメモを殴り書きにする。
叫ぶ。あくびをする。ため息をつく。ぼーっと佇む。慌てふためく。
これら皆、まごうことなき表現だと思います。
見事に整頓された部屋とか、ぐちゃぐちゃに散らかった部屋とか、人の話が終わっていないのに話出すとか、
身を乗り出して話をするとか、退屈してどこか中空を見つめるとか、寝そべってしまうとか、
めちゃくちゃ表現しています。
しかし、それは、それだけでは表現ではない、とも言えます。
発見されて、初めて表現になります。おのずからと、みずからとがせめぎあう。
この、振る舞いと発見の丁々発止のやり取りは、とてもスリリングで滅法美しく、味わい深いものです。
それらがクリエイティヴなことかどうかというのも、それを観察する角度によって変わってきます。
これらのことは、普段から間の会で探求していることですが、【からだを見合う実験室】は、この味わいをより積極的に追求していこうという意志があるように思います。
【からだを見合う実験室】は、昨年10月、11月と津で開催しました。
その後、東京、京都へと広がって行っています。毎回、謎が謎を呼び、腹の底から漲ってくる面白さです。
ここでは、何かダンスやパフォーマンスをしなければならないということではありません。それぞれ、互いに、テーマを決めたり、決めなかったりして、立って、あるいは、座っても、寝転んでもいいですが、一定の時間、動いてみたり、動かなかったり、いたいようにいてみて、そのからだの様子とか、佇まいとか、見てみます。それで、何か感じたこととか、面白かったこととかを伝えあったり、こんなことしてみたらどうだろうかと提案してみたり、とにかく、何でも思いついたことをやってみよう、提案してみようという会です。それぞれ、人のどんな様子を面白いと思うのだろうか、人の様子を見る時に、どんなことを見ているのだろうか、そんなことに興味のある人で集まって、色々実験したいと思います。ダンスや舞台に立った経験など、全く問いませんし、関係ありません。こんなことに興味のある方、からだを動かしてみたい方でも、からだは全く動かないという方でも、何となくピンと来たら、どなたでもご参加可能です。自分の振る舞いやからだは、どんな風に見えているものなのか、そういうことに関心のある方や、人に見られるのが居心地悪いと思う方にも、ぜひ、ご参加いただきたいと思います。
ただ、積極的に、その場に関わってくれる方を募集します。
見る人も見られる人も、どちらもが主であり、どちらもが客でもあります。
「見合う」ことを軸に「見る」と「見られる」に専念していくと「見せる」必要がなくなって行きます。
また、ぜひ、津でもやりたいと思います。
以上の件、すべてお問い合わせ、ご連絡先は、
● メール:aidanokai2015@gmail.com 間の会 西脇秀典です。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
2023年5月1日 間の会 西脇秀典
掲載:2023年5月8日
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