京都開催【からだを見合う実験室】4月16日(日)と、明日4月13日(木)【ご縁の間の会】のご案内です。

桜の花が散っていくのと若葉がまだらに混じるのもまた美しく、

 様々な花や新芽が芽吹いています。 

皆さん、いかがお過ごしですか? 

明日4月13日(木)は【ご縁の間の会 万松山 専琳寺さまにて】です。 そして、間の会の催しではありませんが、4月16日(日)には京都で【からだを見合う実験室】を行います。 

 

◆【ご縁の間の会 万松山 専琳寺さまにて】 

●日時:2023年4月13日(木)13:30〜16:30 

●場所:津市大門 万松山 専琳寺(津観音の東、立町商店街を抜けたところ) 

【からだを見合う実験室】(間の会の催しではありません、有志の集まりですが、どなたでも参加できます。) 

●日時:4月16日(日)12時〜17時 

●会場:京都市左京「西部」いきいき市民活動センター  会議室3 

●参加費:場所代カンパ 定員:10人(世話人含む) 

●世話人:古川友紀、西脇秀典 ※ 残席僅かです。要申し込み。 また、その次には、 


◆【月々の間の会】

●日時:2023年4月23日(日)13:30〜16:30 

●場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター 2階集会室 

 があります。

4月は今のところ、以上です。 

 先日は、【万松山 専琳寺 桜舞台】として、桜の樹と舞い踊りのようなパフォーマンスを行った後、「間の会」を行いました。 桜がひとひら、ひとひら、舞い落ちてくる中、静かな、落ち着いた、しみじみ、いい時間でした。 暗くなるまで話が尽きませんでした。 そして、翌日は【ごちゃまぜ 人間の会】だったのですが、こちらの方は、ぐっと手応えのある、何とも言えぬ、腹の底から、極めて面白いと思える時間でした。例えば、野球とか、サッカーとか、相撲とか、将棋とか、囲碁とか、そういうものの名勝負を直に体験しているような、そんな真剣勝負のような時間でした。具体的に書きたい気もしますが、それは、また、そのような時が来たら。 明日の、【ご縁の間の会】は、桜舞台の余韻がまだ残っているかもしれませんが、それでも、全く違うものになるでしょう。 毎回ですが、とても楽しみです。ぜひ、いらしてください。 【からだを見合う実験室】のこともご案内いたします。 昨年10月に、初めて津の贄崎で行ってから、色々と展開して行っております。 これまた、何が起こるか分かりませんが、ものすごく楽しみです。 私は、間の会を始めるより前から、長年「聞き合う場」の構築に注力してきましたが、 「見合う場」というのは、まだまだ未踏の領域ではないかと思います。 これは、間の会の活動と明らかに軸を同じくするものです。 下の方に、世話人の古川さんと、私のそれぞれの所見も載せておりますので、そちらもよかったらお読みください。 京都開催は2回目ですが、どうも比較的反響が大きく、残席があとわずかです。 見合う、聞き合う場を作るというのは、わたしにとって、一番、ど真ん中の、軸となる大事なことだと、このところ、身辺に起こる激動の変化の中で、改めて思っています。わたしが人前でパフォーマンスをするのも、そういう、見る、聞く空間の構築なのだろうと思います。 場作りの活動をやっている人からすると、何故、そこにパフォーマンスが必要なのか分かりにくい面もあろうかと思いますし、逆に、表現活動をやっておられる方からすれば、見合う、とか、聞き合うような空間が、何故必要なのか分かりにくい面もあろうかと思います。インタラクティヴ作品とか、参加型作品とも、また異なると思っています。 そういう関わりとしての場の構築こそ、私が求めて止まないものです。 これ自体が表現活動です。パフォーマンスも、見合う、聞き合う場の構築も、等しく、同時に、切実に必要です。 見ることの味わい、見られることの味わい、見られることで現れるものに触れる味わい、見たことを伝えることの味わい、見たことを伝えられる味わい、これらを見合うということによって探求して行くことには尽きせぬ魅力があり、どこまでも深めて行けると思います。 京都開催は、次回は未定です。 東京では、大崎晃伸さんが、5月21日(日)に開催されます。ほぼ毎月開催してくださっています。私も、今、身辺の状況の変化が激しいので、予定が立てにくいのですが、可能そうだったら、駆けつけたい思いです。 東京や京都ほど、人が集まらないだろうと思いますが、人数が必要というものでもないので(むしろ、少ない場合ならではの味わいがあります)、津でも、またやりたいと思います。 下にに所見を載せます。

からだを見合う実験室」について 

所見 ... 古川友紀 文字通り、一人一人の体のありようや動きを観察したり、それに対して言葉や体でフィードバックしたりする実験室です。 5時間かけてゆるゆるとやるなかで、見えてくるものや、生成されることがあります。 私は「見る」ということの多層性・複数性をこの実験室から自分なりに得ていると感じています。 以下は、最近読んだ小説から、拾った文章です。 「私はいっぺんで彼女の黒目の虜になった。何を見ているかなんて、他人に分からせる必要がどこにある? 自分自身だってそんなこと、別に知りたくもない。あの厄介で鬱陶しい協調というものを、これほどきっぱり無視している二個の黒目に、私は畏敬の念を抱いた。」 (『元迷子係の黒目』小川洋子) 


 所見 ... 西脇秀典 前回、京都で行った「からだを見合う実験室」に参加された五十嵐香里さんから、翌日の午前中にいただいた感想のメールに、 「あれはまさにダンスの場だと思いました。いつも経験している『ダンスの場』は本当は『〇〇という技術を習得する場』とか『▽▽の公演にむけてのリハーサルの場』であって、ダンスの場ではないのかもしれません。」という記述がありました。とても印象に残ったので、許可を得て引用いたしました。 私は、実は、普段自分自身が行っている行為について、なかなか言語化するのが難しく、かつ、慎重に思う部分があって、「舞い」とか、「踊り」とか、「のようなもの」とか、奥歯に物が挟まったような言い方しか出来ず、「ダンス」という表現は、特に最近は避けているように思いますが、ここで五十嵐さんが書かれている「ダンスの場」というのは何だろうと、考えています。五十嵐さんが、「いつも経験している」のは、どんな場なのか、それは知る由もないのですが、しかし、何らかの「技術を習得する場」や、何かに「むけてのリハーサルの場」ではなかったのだろうなということは伝わってきます。 私自身にとっても、「からだを見合う実験室」は、「何かを習得する」とか、「何かにむけての」場では、やはりないように思っていて、「からだを見合う実験室」という場そのものを行いたいからやっているという感覚が強いです。 そして、その場そのものを行うということが、恐らく、何かが「踊り出す」ような、場そのものの「ダンス」なのではないかと思っています。何かをしなければならない場では全くないのに! それが何なのか、分からないけれど、ある意味、分からないからやる、とも言えます。 ただし、ここで重要なのは、「からだ」を「見合う」ということです。 これを、心置きなく、やってみる、失敗を恐れずやってみる、そういう場なので、「実験室」と言っていると思います。 「からだ」は、 丁寧に見られることで、 自分が誰なのか、 どこから来て、どこへ行くのか、 隠されていたことがあらわになります。 耳を澄ますことで聞こえてくるものがあるように、 目を澄ますことで見えてくるものがあります。 聞く、というのは、「傾聴」とか、「カウンセリング」とか、 様々な「聞く」技術が偏重される傾向にありますが、 見る、というのは、どちらかというと、やや避けられがちなのではないかと思います。 医療とか、美術とかの現場ではもちろん重視されることですが、 この「見る」ことの、様々な質感について、 もっと探求したいと思っています。 しかし、「傾聴」も「カウンセリング」も、専門的、限定的技術であって、 それは、ここでの「見る」とは、やはり別種のことだと思っています。 何か専門的な限定的なことではなく、 もっと、自分自身、その人自身の、 全存在的な「見る」を探求したいと思っています。 どれだけ「丁寧に」「見た」としても、何も見れていないということも含めて。 そして、ただ「見る」のではなく、やはり、 「見合う」が大事だと思っています。 一方的に見られるのではなく、 互いに見合うことで、 見られ放し、見っ放し、とは違う、 場が立ち上がります。 聞く、とか、話す場においても、 「言いっぱなし聞きっぱなし」ということを大事にして、 話されたことと、その人の存在を分けてしまう場のあり方がありますが、 ここで、「見合う」という場合は、 そうではないと考えています。 「見た」人が、 その「見届けた」という体験を、 その人に伝える(これは、必ずしも言葉だけではないと思いますが) ということが大事なように思います。 「こう見た」、あるいは、「見た」ことで、「こういうことが起こった」 ということを、相手に伝えるということで、 互いの存在をかけた関わり合いが生まれます。 この「実験室」は、別に、世話人が、こうしてほしい、ああしてほしいということを、 特に参加者に求めるという場ではありませんが、 しかし、互いに、「からだ」を「見合う」という場では、 実際に何が出てくるか分かりません。 普段、意識していないような、あるいは、表には出していなかったようなものが、 出てくる可能性があります。 それは、決して、安全な、守られた場ではないように思います。 ですから、少なくとも、こうした場をやってみようという場合、 やってみようと呼びかけた者は、 世話人として、はっきり名前を出そうということになりました。 「ダンスの場」というのは、 本当に、場そのものが踊ってしまうことがある、というニュアンスを感じています。 それって、場合によっては、取り返しのつかないことかもしれません。 けれど、そうであっても、世話人として名を連ねる以上、 やりっ放しにはしません。 そういう覚悟で臨みます。 というようなことを、あえて書くのは、 そのくらい、面白い場にしたいからです。 あらかじめリミットをかけてしまっては、面白くないからです。 この所見は、世話人として名を連ねる西脇から見える景色について書きました。 


 最後までお読みいただき、ありがとうございました。 

 以上の件、すべてお問い合わせ、ご連絡先は、 

● メール:aidanokai2015@gmail.com  間の会 西脇秀典です。 


2023年4月12日   間の会  西脇秀典 


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