【間の会のお便り】2021年7月22日を掲載します。
皆さん、こんにちは。
暑いですね。どうぞご自愛ください。
【間の会のお便り】を掲載します。
7月と8月の催し物などについてです。
少し催し物が続きますが、いずれかご関心を持っていただければ幸いです。
【間の会のお便り】2021年7月22日
みなさま、こんにちは。梅雨が明けて、連日激しい暑さと日照りが続いています。
いかがお過ごしですか?
今回は催しが多いです。一部郵送の方には間に合わないものがありますが、ご案内いたします。
一、月々の間の会(7月)
日時:2021年7月25日(日)13:30〜16:30
場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター 2階集会室
二、第6回 津久井やまゆり園事件を忘れないZoom集会 in みえ
日時:2021年8月1日(日)13:30〜16:30
場所:オンラインアプリZoom上(オンライン参加出来ない方用に会場の準備もあります。)
主催:津久井やまゆり園事件を忘れない集会実行委員会
(間の会は賛同団体、間の会 西脇が集会全体の進行を行います。
当日はYouTubeでの配信も行います。)
申し込み:要事前申し込み、申し込み、問い合わせ先は別紙または、リンク参照
三、お盆の間の会 ひぐらしなく 旧暦七夕に迎える
日時:2021年8月14日(土)17:00 〜 20:00
場所:津市まん中広場(雨天の時は、津市役所北のお城西公園にある東屋に変更)
四、お盆の間の会 ひぐらしなく 月遅れ盆に送る
日時:2021年8月16日(月)16:00 〜 19:00
場所:津市まん中広場(雨天の時は、津市役所北のお城西公園にある東屋に変更)
五、月々の間の会(8月)
日時:2021年8月23日(日)13:30〜16:30
↑ 間違いでした。8月23日(日)ではなく、正しくは8月22日(日)です。
場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター 2階集会室
六、問いと共に座る間の会・問ひの間(といのま)「自分自身にとって戦争とは何ですか?」
日時:2021年8月29日(日)13:30〜17:30
場所:アスト津3階 みえ市民活動ボランティアセンター交流スペース テーブル8
◆ まず最初に、既にブログの方にも転載していますが、5月の【月々の間の会】について、5月28日のFBに投稿したものを載せます。
先の日曜、
5月の【月々の間の会】、
誠に有り難き時間也。
遠来の客人と鼎談に始まり、
話熱を帯び、機熟す頃、
階下より足音とともに、
更なる客人来る。
客人黙して座するも、
鼎談は続く。
一息の間合いにて、
新たな客人に一声を乞う。
客人より言葉を賜るに、
客人、鼎談を俯瞰するが如し。
さ、場ぞ改まる。
残り僅かの頃合いにて、
更なる客人来る。
役者は揃った。
記憶と思い出す。
操作と演じる。
話尽きねど、一部の幕。
遠来の客人と第二部へ。
海辺と村々を逍遥鼎談。
日の暮れ、闇夜となるまでも。
間の会、
一期一会とは申すものの、
二年、三年と長きに渡る一つの舞台也。
来るも来ぬも皆役者也。
人生舞台露と消え。
あなかしこ
間の会 贄崎座 座守拝
少し芝居がかっているように思われるかもしれませんが、五月のこの会は、何か、口語体で書けないような感触がありました。
この時に受けた感触と、それ以外にも、いくつかの間の会の集まりなどでのやり取りや言葉から、最近、「舞台」ということをよく考えます。
ここで言う舞台というのは、お芝居を演じたり観劇したりするような舞台とは少し違うかもしれませんが、それらと同質のものもあるかもしれません。
シェイクスピアの戯曲『お気に召すまま』に有名なセリフがあります。
All the world’s a stage, And all the men and women merely players
この世界すべてが一つの舞台、人はみな男も女も役者に過ぎない。(松岡和子訳)
これまでに様々な訳がなされてきました。
前半部分だけでも、「人間世界は悉く舞台です」(坪内逍遥)、「世界はすべて一つの舞台」(木下順二)、「すべてこの世は舞台だ」(大山敏子)、「世界はすべてはお芝居だ」(阿部知二)、「全世界が一つの舞台」(福田恆存)、「この世界はすべてこれ一つの舞台」(小田島雄志)などが知られています。この作品が書かれた頃には、ちょうどシェイクスピアの芝居を上演するために、グローブ座(地球座)という劇場全体の構造が地球を模したような劇場が建てられた頃でした。この劇場は、世界劇場(Teatrum Mundi)という考え方に基づいていて、これは、キリスト教以前の異教古代世界にも原始キリスト教にも源を発し、中世を経てルネサンス時代には、多くに知られた考え方であったといくつかの本に書かれています。
この劇場は、1990年代や2010年代にロンドンに復元されているらしいのですが、そこには行ったことがありません。しかし、わたしが東京に暮らしていた1980年代の終わり頃にこの劇場を模した東京グローブ座という劇場が新大久保の近くに建てられて、わたしはここで、度々、シェイクスピア劇が上演されるのを観に行きました。この劇場は現在もありますが、現在ではジャニーズ事務所が運営しています。
先ほど引用した『お気に召すまま』というのは、非常にトリッキーな作品で、主役の女性が劇の大半を男装して男として振る舞い、最後に女性であることを再び明かすのですが、その女性役をシェイクスピアの時代には少年俳優が演じていたというのですから、ややこしい話です。日本でも、これまでに何度か、この女性の役を男性の役者が演じる試みもされてきました。こうした構造から、「世界は舞台」というセリフも、何か世界全体が虚構のような夢のようなそんな印象も受けます。
わたしは、一度きりしかこの作品の舞台を観ていないのですが、その時は、東京グローブ座での上演ではなく別の劇場で、わたしが多分、高校生か中学生頃から、敬愛して止まなかった女性の役者さんが主演を務められていました。わたしは、正直なところ、その方に会いたくて上京したと言ってもいいくらい傾倒していました。そして、その舞台を観終えて、わたしは、その役者さんに花束と手紙を渡そうと思って劇場の人にお願いしたら、電話で楽屋に尋ねてくれて、その役者さんから、楽屋に来てもらっていいですよと、呼ばれてしまいました。そんなことは全く予想していなかったので、大変緊張しましたが、そのまま楽屋を訪ね、その敬愛して止まない役者さんと、しばしお話することが出来ました。それは、わたしにとって、女性が男装して男性を演じるとか、それは本来少年が演じるものだった、というような仕掛けとしての舞台ということより、自分が今観たばかりの芝居を演じていた役者さんと直接お話することになることの方が、実は、よほど大きな舞台だったのです。それまでに自分自身も色々な形態でたくさん舞台に上がってきましたが、その長年敬愛してきた人と直接対峙する時間は、本当にあらゆる舞台に増して、大舞台でした。
その一年後くらいに、その役者さんが東京グローブ座で「リア王」に出演されるのを観に行く時、開演より随分早く劇場に着いたら、この劇場は少し構造が変わっていて、楽屋の入り口も開けっ放しだったものですから、ふらっと入ってしまい、また、その役者さんとお会いすることが出来ました。その時も、わたしが渡した手紙の感想を丁寧に話してくださり、改めて現実と舞台との間に入っていったような感じでもありました。その方は著名な芸能人の方でもありますが、そういう関わり方をすると虚構のTVやスクリーンの向こうの方とは思えないものがあり、今は20年近くお会いしていませんが、ずっと、またもう一度お会いしたいと思っています。
とても個人的な話が続きましたが、これらのことを思い出したのにはいくつかのきっかけがあります。
ここ数回の間の会の中で、とても残っている言葉の中に、「人を操作するように振る舞う」「芝居掛かってしまう」「人にどう見られているか気になる」というものがありました。
また、もう一つは、ご縁の間の会で、お寺のご住職が「蝋燭を灯して、阿弥陀さんと向かいあっていると寂しくないんです。」と言われたこともとても残っています。
また、これは、間の会とは直接関係ないのですが、古くからの友人がメールで、「大正生まれの私の祖母などは、『どんなこともお天道さんが見ている』」と言っていたことに触れ、それに比べて、今の世の中には「この世に神や仏はいない」、「公平・公正さを望む余地は、そこにありません。」「であれば、人の手で公平・公正さを目指さなければならないのか……。」という言葉を送ってきたことも、長く残っています。
ここで語られている、「人にどう見られているか」とか「阿弥陀さんと向かいあっていると」とか、「お天道さんが見ている」というのは、どういうことをあらわしているのでしょうか。
われわれは、何かに見られていますか?あるいは見られていませんか?
ご縁の間の会を行った専琳寺さんは、浄土真宗のお寺で、わたしも比較的こどものころから浄土真宗の教えには親しみがあったので、ご住職の言葉を聞いて、ふと思いました。浄土真宗では、亡くなった人は、皆、全て、仏様となります。ということは、この教えにおいては、仏さまはどんな顔をしているかというと、他でもないあの自分より先に亡くなられた人たちの顔をしているのかと。
この世に仏様はいないかもしれませんが、あの世にはいるかもしれません。それは、わたしを育て導いてくれた人々全てかもしれません。あるいは、わたしにとっては憎い存在の、その人かもしれません。浄土真宗の教えを信じるかどうかという話ではなく、一つの仮説として、仏さまというのは、亡くなった人のことなのか、と考えると、色々と驚きとともに、ああ、だったら、何もかも全て大丈夫ではないか、安心ではないか、寂しくないではないかという思いがやってきます。
仏様とか神様とかいう言葉が嫌いな人は、そういう言葉を使わなくてもいいような気がします。
わたしより先に亡くなった方々の面影は、常にふとした拍子に、そして、ある意味、いつも、ともにあります。面影が浮かぶということは、同時に見られていることでもあります。
亡くなった方々に見られているわたしは、果たして、芝居掛かったり出来るものでしょうか?
あるいは、それらの人たちにどう見られているか、細々と気にしながら振る舞ったりするでしょうか?そんな余裕はありますか?お天道さんだとどうですか?
どうして、見られているのが、あるいは、相対している、対峙しているのが、現実の、この世の人だと、意識してしまったり、相手を操作しようとしたり、こう見られたいという風に振る舞ったり、ぎこちなくなったり、嘘をついてしまったりするのでしょうか?
実際、今の時代、お天道さんも、神さまも、仏さまも、よほど信仰の篤い方でもない限り実感に乏しいのではないかと思いますし、そういうものへの反発もあるだろうと思います。
しかし、亡くなった人々や、現実の目の前の人に、どうして、あれこれ意識しながら振る舞う必要があるでしょうか。
これは所謂、自意識過剰というようなことなのかもしれません。
亡くなった人々は、そこを直接指摘してくれたりはしないかもしれません。
しかし、直接相対している、対峙している人同士、何故もっと、互いに色々なことを指摘し合わないのかなと思います。
ここで、最初の話に戻りますが、この世が全て舞台であればいいのではないでしょうか。
その感覚は、お天道さまにせよ、神さま、仏さまにせよ、昔の人々は何かに見られている感覚があったかもしれませんが、現代の人はそういう感覚は希薄になっています。
また、舞台とか芝居とか言うと、職業役者さんや芸能人の芝居を思い描いてしまいますが、あれは、むしろ特殊なものではないかなと最近特に思います。正直、多くは嘘っぽいです。
間の会では、互いに見ているし、見られているし、そこにいる人は皆主人公です。
何か芝居がかっていたり、意識過剰だったり、実際の思いと違うようなことを語っていたりすれば、互いに指摘し合えばいいのです。
役者の役という言葉は、役に立つ、の役と同じで、これは、漢字の来歴から言えば、鉾を持って国境を守る兵士のことを言ったのだそうです。わたしは、そういう意味では、間の会では、別に、役に立っても、立たなくても、ということをこれまでに何回か書いてきています。
しかし、反面こういうことも言えます。間の会では役に立たない人はいません。そこに座るだけで、既に役に立っています。
この世はあの世から見られているし、この世からあの世を見ています。あの世というのは、何か特殊な死後の世界とかそういう意味ばかりでなく、単に向こう側という意味です。
何か、こちら側と向こう側というのは、あるような気がします。
わたしは、間の会でも折々、踊りのような舞のような、あまり名付けられない身振りを奉納していますが、そんな時、月や一番星や、カラスや、通行人や、草葉の陰から、見られています。
見られている以上、勝手気ままに、自由奔放に行っているわけではありません。
わたしは、見る、見られるその不自由さを大切に思い、愛おしみ、言祝いでいます。
先日、目の見えない人と見える人と一緒に作る舞台、場の企画に参加しました。
わたしは、見えない方は、どういう風に視線を感じたり、見られることを感じているのだろうということにとても関心がありましたが、色々とやりとりを重ねたり、場を共にさせてもらって、見えない方も見られているのだなあというある種の確信のようなものを感じました。見るとか見られるというのは、必ずしも視覚的なことだけではないのだと思います。みるというのは、漢字にしても、観、診、省、相、鑑、監、など、たくさんあります。それを参照しただけでも、視覚的なことだけではないことがわかります。
こうした寄り合いみたいなものは、一つの芸能とも言えます。
共に座り、遊びましょう。
◆津久井やまゆり園事件を忘れない集会を今年も行います。先月の間の会で、忘れるとか忘れないということが話題になりました。なんとなく、その辺のことも、気になったりいたします。
◆お盆の間の会を今年は二回に分けて行います。それぞれ一回毎の参加で大丈夫です。
◆これも先月の月々の間の会でのことですが、「戦争」という言葉について、色々な言葉が交わされました。そこで、それぞれの「戦争」という言葉から見える景色が本当に色々と異なるのだなと思いました。以前からテーマにしたいと思っていたのですが、改めて「問ひの間」で、「戦争」とは何か、考えてみたいと思います。
◆其々の間の会のご案内は、毎回のお便りに掲載するのはやめました。引き続き承っております。
以上の件、すべてお問い合わせ、ご連絡先は、
●メール:aidanokai2015☆gmail.com(☆を@に変えてください。) 間の会 西脇秀典です。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
2021年7月22日 間の会 西脇秀典
第6回 津久井やまゆり園事件を忘れないZoom集会inみえのサイトです。
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