『2020年3月11日を共に過ごす』を前に、少し思うことと追伸
明日の『2020年3月11日を共に過ごす』、最終ご案内です。
使用する市の施設は、通常通り使えるとのことで、予定通り開催します。
明日、わたしの体調に思わしくないところがありましたら、中止のご案内をいたします。
また、3月22日(日)に予定しております【月々の間の会】も、状況に大きな変化がなければ、開催します。
『2020年3月11日を共に過ごす』詳細
https://aidanokai.amebaownd.com/posts/7882271
これに際して、昨日と今日、ご案内と追伸のメールをお送りしました。
両方合わせてだと、かなり長いですが、前のご案内で、色々思うことがあると記しておりましたことについて、メールにしたためましたので、こちらにも、だいたい同様のものを掲載します。大事な誤字脱字などを修正したものになります。(まだ、ありそうですが・・・)
少し、思うことを記しておきたいと思います。
色々、何か伝えたい、言葉にしたいことがあるなあと思いながら、気がつくと居眠りしていることが多かったのですが、ふと、うたた寝から目覚めた時に、伝えたいことが、やってくる感じがありました。
何かすることをやめておきなさいとか、何かをすることはやめた方がいいとか、そういうことを言われたりすることも多い昨今、同調圧力に負けないとか、同調圧力に屈しないとか、そういう言葉もよく見かけます。
わたしはどちらでもいいのではないかと思います。
負けるのも、負けないのも、屈するのも、屈しないのも、最終、我が身一身のことです。
一身のことであり、また、誰か、そのようにお願いしたり、忠告したりして来た誰かとの間のことです。世の中で、何かをやめるように、何かをやることを控えるように言われているのか。この場合の世の中とは何だろうか、具体的に、誰が、そういうことを望んでいるのか、誰に、頼まれたのかと思います。
やるにせよ、やらないにせよ、同調圧力といったような実態のない亡霊のようなものから、要求されたり、強制されることではありませんし、そのような亡霊を敵だと思ってしまうのは、何らかの錯覚かもしれません。
無理やり強制させられる、強いられるという時とは、どんな時だろうかと思いながら、今、やめようとしていることは、誰がやめようとしているのかということに思いを馳せます。
同じように、今やろうとしていることは、誰がやろうとしていることなのかを問うてみます。
人に、何かを頼んだり、提案したりする時も同じような働きが生まれています。
誰かに何かを強制させたり、強いるということを、これまで、どのくらいやってきたのだろうかということを振り返ってみます。
同調圧力というような実態のないもののせいにしているのは、限りなくエネルギーの無駄のような気がしてなりません。
もっともっと確かなものがあります。
確かなものとともにいることは、エネルギーの浪費や枯渇には繋がりません。
同じ考えであっても、敵対していても。人であっても人でなくても。
同調圧力というものを、ものすごく確かに感じたら、それを、その言葉や感覚だけで留めず、絵に書いてみたり、からだで表してみるのもよいかもしれません。
先日、久しぶりに開催した、街角井戸端会議は、わたし以外に、参加者は誰も来ませんでした。
わたしにとっては、何か、とても新鮮な、よい時間でした。
誰かを待っているとか、何かが起こることを待っているのとは、全く違う、ただ待っているということが、満ちてくるような、全身で待っているのだけれど、別に、それは何かを待っているわけではなく、待っているということすら忘れているような、とても穏やかな時間でした。
これは、わたしにとって、とても面白いことでした。
少し、そんな言葉を置いておきたくなりました。
では、3月11日と、3月22日、ともに、お待ちいたしております。
今回も、11日の方は、郵送の方には間に合わず、申し訳ありません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
間の会 西脇秀典
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■追伸
皆さま
昨日、思うことを少し記したのですが、
どうも、少し、言い残したことがあるように思い、
今日、追伸をメールでお送りいたしました。
それをこちらにも掲載いたします。
昨日、
>(同調圧力に)負けるのも、負けないのも、屈するのも、屈しないのも、最終、我が身一身のことです。
と書きましたが、これは、自己責任とか、自由意志による自己決定ということとは違います。
ここで私は、自己決定力とか、意志力のことを言いたいわけでは、全くありません。
決めるにせよ、決めないにせよ、やるにせよ、やらないにせよ、それと、決定する力の強さ、弱さとか、意志の強さ、弱さということを言っているのでもありません。
人間関係における、関係性の強い、弱い、や、交渉能力、心理的な強さ、弱さのことも言っていません。
また、一般的に意志決定が出来ないとされる方もいるでしょうし、何かを決定する際に、他の人の助言や援助が必要な方もおられると思います。
我が身一身というのは、やるにせよ、やらないにせよ、やらされるにせよ、やめさせられるにせよ、誰がそれを行ったのかという、明白な事実のことだけを述べています。
やりたいのか、やりたくないのか、という気持ちや意志や、迷いなどのあれこれについては、全く述べていません。
ただ、大変シンプルに明快に、誰がそれを行ったか、行わなかったかという事実だけを見るということを言っています。
責任の所在ということも、ここでは特に触れていません。
誰が、やったか、やらなかったか、だけです。
その場合、単独の場合もあるし、誰かの助けを借りて、協力を得て、行うということもあると思います。
気持ちや、意志、心理、内面といったようなこととは関係なく、行為なり、あるいは発した言葉なりの事実そのままの姿を見るということを言っています。
解釈も必要ありません。
その人がどういう思いなのか、それは他の誰にもわかりませんし、本人もわからないかもしれません。
それでいいのではないでしょうかということです。
現れたことを大事にしていきたいということです。
それは、現れないことを大事にしないということではありません。
現れないことは、現れないこととして大事にすることです。
これは、いきてゆく上で、普遍的に大事なことだと思っています。
また、次に、後段の話の中で触れた、
>ただ待っているということが、満ちてくるような
ということについても、少し、言葉を継いでいきたいと思います。
「待っている」と書きましたが、
「待って」「いる」というのは、
「待つ」よりも、「待ち」という姿勢に近いと感じました。
「まち」という言葉が、その後、何度も、浮かんできました。
「まち」という言葉から、この一年間くらい、何度も繰り返し読んだ本の、ある一節がどうしても重なってきて、読み返していました。
瀬尾夏美さんの
『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』晶文社刊
という著書の中の「三年目」三月二十二日とある中にある以下の一節です。
「友だちが帰ってこられるように
しておくことが、
このまちに帰ってきて仕事してるやつの
役割だと思うべな。
わざわざ何か用意する訳でもねえ。
泊まれるとこ貸してやったり、
話し相手になってやったりさ。
それだけでいんだ。
まずはそこからさ。
まちって居場所のことだから。
まちつくるって居場所をつくることだから。」
この一節は、その前の節の、
「俺もうこのまちやんたくなった。」
という一文から始まります。
ここで、ひらがなで表記されている「まち」って何だろうと、
この一年間、ずっと折につけ、考えていました。
文脈からすると、「町」あるいは「街」かもしれません。
「町」や、「街」は、なぜ、「まち」というのだろうかと考えていました。
「まち」という言葉には、「部屋の区画」のような意味もあったようです。
布などで出来た衣服や、袋などの、少しゆとりを持たせた布の部分を、
「襠」と書いて「まち」といいます。
最初にわたしが感じた「待ち」の姿勢も、
「町」も「街」も「襠」も、どうしても、それほど、大きく異なるもののようには思えません。
これも、端的に、事実として、同じように響くのですから、ダジャレでなくとも、ある同じ構えで、これらの言葉を聞き、発しているように思います。
どの意味で使っても、それは、ある空間を表していると思われます。
そこから、「まちをつくる」って何だろうかと思います。
わたしには、わたしの一存で自由に使える建物も土地もありませんが、「まち」という空間は、必ずしも、具体的な建物や土地や都市でなくても、つくっていくことは出来るのかな。と、何か抽象的にではなく、「待ち」の姿勢を、確かに感じながら、そこで起こったことを、辿ってきました。
上に引用した文章は、今度、【月々の間の会】を行う3月22日に書かれたのか、ということを、辿りながら、どんどん、奥の方に収まってくるものがあります。
これを言葉にしていて思いました。
明日も、【月々の間の会】でも、
もし、声に出して読んでみたい文章や本、言葉などありましたら、どうぞお持ちください。
では、お待ちしております。
長くなりましたが、追伸をお送りいたしました。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
間の会 西脇秀典
『2020年3月11日を共に過ごす』
https://www.facebook.com/events/2557136821240339/
【月々の間の会】
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