【からだを見合う実験室】in 国府津(詳細)

【からだを見合う実験室】の詳細を1ページにまとめました。


◆【からだを見合う実験室】(間の会主催ではありません。)

今回は、神奈川県の国府津で開催します!

日時:2026年2月14日(土)12:00-18:00

会場:BLEND POST https://seisho-blend.com/blend-post/

参加費:1000円

定員:10名(要申し込み・既に定員に達しているため、キャンセル待ちになります。)

世話人:大崎晃伸・古川友紀・西脇秀典

FBイベントページ


世話人より


今回は、これまで開催することの多かった都市部から足を延ばします。東京や横浜あたりに住む人にとっては小さな旅です。移動することや移り変わる風景を浴びることは、からだにどんな作用をするでしょうか(あるいはしないでしょうか)。会場のすぐ近くには、強い海風の吹く相模湾が広がります。旅をして、からだと向き合う1日を過ごしてみませんか。

だれかの体を見ること、だれかから見られること。この「実験室」では、「体を見合うこと」を通して、その状態や有り様、感触などを味わい、それを言葉にして話し合います。そして、自分やほかの人たちの「見る」や「見られる」を発見し合います。何かアイデアが出たら、試してみたり。休憩しつつ、5時間、じっくりと。そこに人が集い、どのようなことが立ち現れるのかを大切にしています。

「からだを見合う実験室」は、3人の世話人で運営しています。世話人は、この場を開いていますが、プログラムを提供したり、いわゆる「ファシリテート」をするというわけではありません。参加する皆さんと一緒にその場を作って行きましょう。


所見(西脇)


視線とかまなざしというものは、具体的にどういう現象なのだろうかという疑問が常にあります。

じろじろと見られたり、カメラを向けられたりすることに、多くの人は敏感に反応します。

それは何故でしょうか?

それを、視線やまなざしと呼ぶのかどうか、世間で合意が取れているとまでは思いませんが、多くの人が、他者からの具体的な視線やまなざしではなく、社会からのまなざし、自分から自分へのまなざしを内面化しているケースが非常に多いように感じています。それは、自分がどう振る舞うのか、どういう仕草をするのか、どう居たいのかを、骨格や筋肉、皮膚の表面、身につけているものの次元まで、かなりの部分を規定してしまっているようにも感じます。もちろん、人によって、かなり大幅にその割合は異なると思いますが。

また、これは、本当にわたしの私見に過ぎませんが、人前に立ってパフォーマンスを見せる活動を行ったり、職業にしている方の中の一部には、視線への過敏な感覚を持っておられる方が結構いらっしゃって、視線に対するトラウマ的なものを持っておられる方もいます。

人に観られることへの不快感から、むしろ、自身が主体的に人前に立つことを選んでおられる方がいます。

確かに、客体として観られることと、主体として観せることは、全く異なることです。主体性の回復は人間にとって非常に重要なことですから、これはある意味当然かもしれません。

あるいは、こう見せるべきという強い幼少期からのまなざしの内面化によって、自分の身体がどう動きたいのかが分からなかったり、あるいは、勝手に動くことを許可できない人もおられます。

しかし、これらの、社会的まなざしや、自分を律しているような内面化した、内なるまなざしとは、一体具体的に何なのでしょうか?

わたしは、この実験室は、合意形成を図りながら、具体的な他者のまなざしに触れられる、あるいは、人へまなざしを向けられる、非常に貴重な機会だと思っています。しかも、互いに(かたみに)です。

実際に、完全に受動体として、人からの具体的なまなざしに触れた時に、それは、内なるまなざしと、どう違うのか。具体的な他者からのまなざしとは、一体何なのか、どういうまなざしであれば、不快で、どういうまなざしであれば不快でないのか。

逆に、人にまなざしを向ける時に、一体、何を見ているのか。

まなざしとは、自ずから感じられるものなのか、あるいは、決定的に他者からのものなのか。

見せるからだと、見られるからだは、どのように異なるのか。

これらはやってみないと分からないことなのですが(つまり観念的に考えても埒があかない類のことですが)、実際、内なるまなざしの檻は、他者からじかにまなざしによって触れられる時に、可視化されるのでしょうか?

触れることと、触れられることは、自他のあわいにあることで、明確な区別がつきにくいですが、これは、見ることと見られることにも言えるのではないでしょうか?

感じられるかどうか分かりませんが、具体的な他者のまなざしに存分に触れてみてください。

本当に具体的な他者のまなざしは、自分ではどうにも意のままにならないものです。その意のままにならないものに晒されるということはどういうことなのか。他者からのまなざしを支配し操作する主導権を握って、見せる人になるのではなく、真に客体としての、見られる人になった時、からだはどのように動き出し、あらわれるのでしょうか?

本当に興味の尽きないことです。

西脇秀典


以上の件、すべてお問い合わせ、申し込み先、ご連絡先は、

● メール:aidanokai2015@gmail.com 間の会 西脇秀典です。


最後までお読みくださり、ありがとうございました。

2026年2月3日 間の会 西脇秀典

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間の会 on Instagram: "【からだを見合う実験室】西脇の所見。 間の会主催ではありませんが、西脇が行っている【からだを見合う実験室】を開催するにあたっての心構えみたいなものとして、所見を

1 likes, 0 comments - aidanokai on February 3, 2026: "【からだを見合う実験室】西脇の所見。 間の会主催ではありませんが、西脇が行っている【からだを見合う実験室】を開催するにあたっての心構えみたいなものとして、所見を書きました。今回は既に申し込みが定員に達しているのですが、これは間の会にも通じるものなので、所見を掲載しておきます。 所見(西脇) 視線とかまなざしというものは、具体的にどういう現象なのだろうかという疑問が常にあります。 じろじろと見られたり、カメラを向けられたりすることに、多くの人は敏感に反応します。 それは何故でしょうか? それを、視線やまなざしと呼ぶのかどうか、世間で合意が取れているとまでは思いませんが、多くの人が、他者からの具体的な視線やまなざしではなく、社会からのまなざし、自分から自分へのまなざしを内面化しているケースが非常に多いように感じています。それは、自分がどう振る舞うのか、どういう仕草をするのか、どう居たいのかを、骨格や筋肉、皮膚の表面、身につけているものの次元まで、かなりの部分を規定してしまっているようにも感じます。もちろん、人によって、かなり大幅にその割合は異なると思いますが。 また、これは、本当にわたしの私見に過ぎませんが、人前に立ってパフォーマンスを見せる活動を行ったり、職業にしている方の中の一部には、視線への過敏な感覚を持っておられる方が結構いらっしゃって、視線に対するトラウマ的なものを持っておられる方もいます。 人に観られることへの不快感から、むしろ、自身が主体的に人前に立つことを選んでおられる方がいます。 確かに、客体として観られることと、主体として観せることは、全く異なることです。主体性の回復は人間にとって非常に重要なことですから、これはある意味当然かもしれません。 あるいは、こう見せるべきという強い幼少期からのまなざしの内面化によって、自分の身体がどう動きたいのかが分からなかったり、あるいは、勝手に動くことを許可できない人もおられます。 しかし、これらの、社会的まなざしや、自分を律しているような内面化した、内なるまなざしとは、一体具体的に何なのでしょうか? わたしは、この実験室は、合意形成を図りながら、具体的な他者のまなざしに触れられる、あるいは、

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