やまゆり園事件を考える集会、からだを見合う実験室、身体企画についてのご案内。

皆様

こんばんは。

蒸し暑いですね。そして、早い方のお盆がやってきました。

うちでは、今日、それほどせわしない感じではなく、お盆のお勤めをしました。

また、先日は、スタジオピアさんで間の会を行ってきて、やはり、その都度、その都度、それでいいのか、問いが生まれます。答えはないかもしれませんが、もしかしたら、やること自体が答えなのかもしれません。

今日は、三つお伝えいたします。どれもとても長くなります。

そのうち二つは東京での開催のものになります。

関心のあるところだけでもお読みいただければ幸いです。

日付順ではありませんが、


一、8月3日開催の【第八回 津久井やまゆり園事件を考える集会 in みえ】への、個人・団体でのご賛同と、メッセージ募集のお願い

二、東京開催の【からだを見合う実験室】7月20日(土)のご案内。

三、代表・西脇の個人活動になりますが、7月18日(木)、東京武蔵境の810 OUTFIT café

主催の催しに、伴奏、音楽、音源なしの身体ソロ即興ライヴに西脇が出演します。東京でのソロの出演は初めてとなります。

この三つの詳しい案内になります。(配信したメールでは、この7月の催しが、8月になっていました。大きな間違いです。集会は8月で間違いありません。)


まず、一、です。

事件発生の翌月に開催して、その後、名称を変えながら毎年開催している(2022年のみ中止)こちらの集会に、賛同していただける団体・個人を募っております。また、メッセージも募集しております。今年は間の会も共催という形になります。

ご関心のある方に、ぜひ、お願いいたします。

集会に賛同するというのはどういうことなのか、何故、そのようなお願いをするのか、ずっと考えています。

やはり一番強く思うのは、どのような考え、立場の人であっても、この集会に参加しやすいようにするためだと思います。色々な立場の団体や個人が賛同者に名前を連ねてくださいますと、特定の結論や考え方に帰結するのではなく、思うことを発言出来る場になりやすいのではないかと思います。

この事件の特異で不可解なところは、事件が起こった施設で働いていた職員の声があまりにも聞こえてこないところです。また、この施設でなくても、多くの施設職員の方が、あまりこの事件のことを語りたがらないようにも思います。どのような立場の方でも、気にかかっていること、思うことを、ぜひ、語っていただきたいと思っています。

そのような場になるようつとめます。

現在は、各地の戦争に心を痛めている方も多いと思います。わたしは、何らかの信念や、正しいと思って人を殺すようなことを、どうやったら止めることが出来るのか考えています。また、そのような考えを持った人や、そのようなことを実行しようとする人と、どのように共に生きていけるのか、そこを探っていきたいと思います。

どのような考えの方でもこの集会に来ていただきたいと思っています。

ぜひ、この集会にご参加ください。また、周知にご協力ください。よろしくお願いいたします。

下のお願いの文章ですが、7月14日をめどにと記載していますが、まだ募集中です。複数の団体から既にご賛同はいただいています。明日7月16日に一旦取りまとめをして、第二弾もしくは最終版のチラシの印刷に入ります。

明日でしたら、また、チラシに記載出来ます。

それ以降のご賛同の表明の場合は、当日配布する資料に記載いたします。また、メッセージは、集会開催前日くらいまで募集しております。ぜひ、お寄せください。

現在、この集会の趣旨にご賛同いただける団体や個人の方を募っております。またメッセージも募集しております。

お願いの文章は、実行委員会の皆さんと作りました。


2024年7月2日

各位

第八回津久井やまゆり園事件を考える集会 in みえ実行委員会

             実行委員長 西脇 秀典

「第八回津久井やまゆり園事件を考える集会 inみえ」への団体及び個人としての賛同と協力のお願い

 拝啓、時下ますますご清栄であることにお喜び申し上げます。平素より貴下の諸活動から有形無形のはげましと示唆を頂き、厚く御礼申し上げます。

 第八回津久井やまゆり園事件を考える集会実行委員長をつとめます間の会代表の西脇 秀典と申します。

 さて、このたび、来る2024年8月3日に「第八回津久井やまゆり園事件を考える集会inみえ」を下記の通り開催することにいたしました。今回は主催として有志で実行委員会を立ち上げ、共催として任意団体・間の会とNPO法人・ピアサポートみえで行う形で運営いたします。

 この集いは、2016年7月26日に神奈川県相模原市の障害者支援施設「津久井やまゆり園」で刃物による大量殺人事件により亡くなった方々の追悼と同時に、重軽傷を負った方々に思いを馳せるものです。

 この事件の犯人は「意思疎通の取れない重度の障害者は安楽死させればいい」との信念のもと犯行に及んでいます。これを異常な考え方の犯行と断じることは出来るでしょうか?わたしたちは普段から重度の障害者と接する機会を与えられているでしょうか?何故、わたしたちの身近には重度の障害者の方々がもっといないのでしょうか?この事件は、犯人が死刑判決を受けたから解決したわけではなく、わたしたち一人一人の意識や社会のあり方に大きな問いを投げかけています。この事件の投げかける問いはあまりにも大きく、わたしはこの事件について考えることをやめてはならないと思います。犯人の考え方は重度の障害者ばかりでなく言語やコミュニケーションの仕方の異なる人をも否定しかねません。

 共に生きるにはどうしたらいいのか、一体、一人一人それぞれどんな思いを抱いているのか、事件の再発防止や事件の背景なども含めて一人一人がそれぞれの視点で考えつづけ、結論を決めつけるだけでなく、それぞれが他者の意見に対しても開かれたものでありたいと思います。

 そこで、今集会は、私たち一人ひとりが思うこと、感じていること、考えたいことに触れ、自身の思いを掘り下げ、互いの考えを尊重しながら考え続けられる場にしたいと思います。

 犯人の動機に意思疎通が取れないものへの否定という側面もあり、不完全ではありますが、情報保障のバリアフリー化にも努めながら開催いたします。

 つきましては、この集会を広く周知し、様々な立場の方の参加を促すために、開催の趣旨にご賛同いただき、発信や参加の形でご協力いただきたく存じます。

 賛同していただける団体、法人、個人につきましては、別紙の「賛同団体同意書」・「賛同個人同意書」 に記入し

Fax、メールにて7月14日頃をめどにご返送ください。

最終版のチラシや当日配布する資料などにご芳名を掲載いたします。

 なお集いを開催するにあたり、メッセージも募集しております。メッセージは当日選んだものを読み上げ、当日配布資料などに掲載する予定ですので、あらかじめご了解ください。なお個人名でなくペンネームでの投稿も可能です。

 また団体での協力が難しくとも、個人や連名での賛同も受け付けております。

 略儀ながら、ご案内方々、ご協力のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。

 イベントのプログラムは下記実施要項を参照してください。

敬具


「第8回津久井やまゆり園事件を考える集会inみえ」実施要項

1.日時:2024年8月3日(土曜日) 午後5時00分~午後7時00分

2.会場:津市まん中広場

    雨天時は、津センターパレス地下1F

    津市市民活動センター オープンステージで開催。

3.内容:

・相模原殺傷事件被害者への追悼

  ・相模原殺傷事件の概要についての説明

・障害者殺傷事件から9年、今私たちが思うことを互いに語り聞き合う。

4.プログラム:

・黙祷

・実行委員のあいさつ

・寄せられたメッセージの紹介

・互いの想いに触れ合う時間(フリートーク)

・終わりのあいさつ

5.問い合わせ先・事務局:

〒514-0035 津市西丸之内7-20

特定非営利活動法人ピアサポートみえ 担当 細野・鈴木

電話番号 059-213-9577 Fax 059-273-5911

メールアドレス peershinsaku@yahoo.co.jp(鈴木)

間の会 https://aidanokai.amebaownd.com/

ピアサポートみえ https://peersupportmie.jimdofree.com/

6.主催、共催、後援など

主催:第八回津久井やまゆり園事件を考える集会 in みえ実行委員会

   (佐藤竜 白﨑宇多彦 鈴木晋作 高山宗仙 西脇秀典 松田愼二)

共催:間の会、特定非営利活動法人ピアサポートみえ

後援:三重県、三重県教育委員会、三重県社会福祉協議会、津市、津市教育委員会(申請中)、津市社会福祉協議会

賛同団体(個人):PhotoGallery165 一般社団法人三重県社会福祉士会 特定非営利活動法人DPI日本会議 公益財団法人 反差別・人権研究所みえ  亀田恵子 今枝良浩 佐々木絵実 小熊英二 大杉博敏 伊藤晴美(7/17日現在)


以上が、集会に関するお願いの文章です。

次に、

二、です。

【からだを見合う実験室】は、最初、津で開催しましたが、その後、京都や東京で開催するようになっています。三人が共同で運営していて、直接、間の会とは関係ないですが、わたし自身は、間の会と目指すものや質は同様のものと考えていますので、ご案内いたします。

三人で、実験室はどういう場かという文章を書きました。それと、それぞれの所見を掲載します。


【からだを見合う実験室】(東京開催・間の会主催ではない推奨の催し)

日時:2024年7月20日(土)13:00〜18:00(終了時間は前後する可能性があります)

場所:東京都世田谷区:弦巻区民集会所・会議室

世話人:大崎晃伸・古川友紀・西脇秀典

参加費:500円(会場代と運営費含む)

定員:10人(世話人含む)

FBイベントページ

【人数把握のため、必ず事前に申込をお願いします】


だれかの体を見ること、だれかから見られること。

この「実験室」では、「体を見合うこと」を通して、その状態や有り様、感触などを味わい、それを言葉にして話し合います。そして、自分やほかの人たちの「見る」や「見られる」を発見し合います。

何かアイデアが出たら、試してみたり。

休憩しつつ、5時間、じっくりと。

そこに人が集い、どのようなことが立ち現れるのかを大切にしています。

「体を見合う実験室」は、3人の世話人で運営しています。

世話人は、この場を開いていますが、プログラムを提供したり、いわゆる「ファシリテート」をするというわけではありません。

参加する皆さんと一緒にその場を作って行きましょう。


-「からだを見合う実験室」について (随時更新)

所見 ... 大崎晃伸

その場所にいること、他者と一緒にいることとはどういうことなのか。そして、他者を理解するとはどういうことなのかを、捉え返してみたいと思っています。

体や佇まい、振る舞いや踊りから、その人のことがわかる、その人がにじみ出てくると思ってきました。今もそう思っているのですが、その人と話をしてみると、こちらが思っていたのと全然違う意図で動いていることもあります。

簡単に他者を理解できると思うのは危ういと思います。しかし、他者を外側からはわからないブラックボックスにしたくはないとも思います。

身体は、誰もが持つ普遍的なものでありながら、それぞれの身体には強い個別性があり、歴史があります。身体の内側で起きていること、心の動きの詳細は、外から見て簡単に推し量ることのできるものではありません。

私たちは、なぜ他者と一緒にいて、他者をわかりたいと思うのでしょうか。実験室に参加しながら、そのことを考えたいと思います。


所見 ... 西脇秀典

前回の「実験室」で、一人ずつを他の人が見るということをやった後、一人の方が、「からだが見えてこない」と言われました。それに対して、(今、他の人の前に立っていた)「さっきのわたしはなんやったん?」との言葉が出ました。ついで、先の方は、「自分が『からだ』と思っているものは何なのだろうか」と自問の言葉を発せられましたが、わたしは、ある意味、ここに「実験室」でのとても大きな出来事が起こり始めていたように思います。しかしながら、ここで起ころうとしていたことを、それ以上深められなかったという悔いも残りますが、何より「残る」ということが大事であったのではないかとも思います。

また、わたし自身のことで言えば、やはりある方のを見た後、こう見えていると思ってはいたものの、はっきり自信が持てず、こう見えた、ではなく、こうでしたか?と疑問形で聞いてしまったところがありまして、これは、とてもしくじったなと後々思いました。

「からだを見合う」と銘しているのですが、まずもって、どうしたら、「からだを見る」ことが出来るのか。「見合う」のですから、「見る」だけでなく、「からだを見られた」ことになるのか。ただ、見ているだけで、「見た」「見られた」と言えるのか。

この集まり、ただ、「見る」と「見られる」だけで成立しているわけではないのではないかと思います。言葉でのやりとりは、「見る」と「見られる」の実態の部分に大きく影響します。というか、言葉でのやりとりによって、何かが起こったり、起こらなかったりします。

「からだが見えてこない」のであれば、そこに居た人も、居なかったことになってしまいます。少なくとも、そのくらいの強い出来事がそこに起こってしまいます。

では、ここで言っている「からだ」とは何なのでしょうか?

「からだ」という言葉の語源を辿って、「からだ」とは何を表してきたのか、その来歴を調べることは、ある程度は可能ですが、それで何かが分かるというのも違う気がします。

そこには、今、その人が発した「からだ」という言葉の器に何が入っているのか。「見えてこない」という言葉は、そこに何を起こしているのか、非常に個別の出来事であって、意味や語源を調べて分かる類のことではありません。

言葉そのものが実態でもあります。

元々、この「実験室」を始めた時、「からだ」を見たい、という思いはあったと思います。しかしながら、この見たい「からだ」とは、一体何なのか、一人一人、確実に、個別の「からだ」があるのだとは思いますが、しかし、同時に、一人一人、「からだ」とは何かという認識は異なっているようにも思います。むしろ、「からだ」という言葉が、謎を大きく孕んでいるから、「からだ」を見たいというテーマも現れてくるのだと思います。

これが、仮に「すがたを見合う実験室」だったら、どのようなものになるでしょうか?全く違う質のものになるでしょうか?

いや、「からだ」よりも、「見る」「見られる」「見合う」の方に重きがあるのだ、ということも出来ます。

「見る」とは何なのか、「見られる」とは何なのか。

同じ言葉を発した、聞いたとしても、果たして、それは共有出来るものなのか。

共有出来るとしたら、何なのか。

人は見たいものしか、聞きたいものしか、見たり、聞いたり出来ないのか。そこに現れているものを、ただ見る、聞くことは出来ないのか。あるいは、出来ないということをどのように認識しているのか。

そんなことを探りながら、5時間の間、ひと時、同じ船に乗ってみる、そんな感じかもしれません。


所見 ... 古川友紀

「いつかだれかをみとるひ」

ある日ぼくは

今日はしんどそうな顔してるねってひとから言われた

さほど付き合いのないひとだった

そんなつもりはなかったけどそういう顔に見えていたのかと驚いた

ぼくはそのときまでずっと考え事をしていて、夢の中でも目が覚めてもそうだったのに、そのことに気付かないでいたのだから、ぼくがしんどい顔だったのは本当なのかもしれない

ぼくは鏡の中のぼくの顔を見ていたのに、見えていなかった

ひとに言われてそう見えてくる

見る 見える 見えない 見ない I see

見た目 良し悪し

見る目 あるなし

見と目 るられる

黒目にうつっている

白目にわいてる

黒と白はいつかまじりあい濁る

そのとき瞼は開いているか


こちらは以上です。


次に、

三、です。

わたしが東京から住まいを三重県の実家に移してから、早いものでもう17年にもなります。

最近、再び、東京の方にもまたご縁をいただくようになり、この度、7月18日(木)に、東京は武蔵境のライヴハウスに、身一つで無音、1時間の即興舞台に出ることになりました。

ライヴですから、舞台に立つ人と観客とがあります。これは、通常、間の会で行っているものとは、少し形式が違いますので、7月の間の会のスケジュールには載せませんでした。

しかしながら、わたしは、基本は同じだと思っています。

舞台に立つのは、何かを表現、発表したいからではありません。

やはり、観客の皆さんと対峙するほかありません。

観客の皆さまも、ただ受動的に観ていなければならないものでもありません。

つまらなかったら、観ていられなかったら、石持て、投げてください。

そのようなものとして、舞台に立ちます。

それは、常にいつも、間の会でやっていることと同じです。

催しのタイトルと詳細はこちらです。


2024年7月8日(月)〜7月21日(日)

《無伴奏即興/ソロ身体》シリーズvol.6

『 時空は無垢なまま拓かれている 』

【会場】

810 OUTFIT café

東京都武蔵野市境南町2-8-6 正和ビル103号

(JR 武蔵境駅 南口より徒歩3分)

https://810.chikura.org

【入場料】

2000円(演目終了後のドリンク500円〜)

+演者にTipping(投げ銭)

※入場料は1公演料金です。

午後の部/夜の部のお客様は入れ替え制です。

※Tipping(投げ銭)は全額出演者のギャランティになります。

3回券(6000円→5000円)1000円割引

5回券(10000円→8000円)2000円割引

全回券(28000円→20000円)8000円割引

※入場時に受付スタッフにお求め下さい。


わたしは、

7月18日(木)  19:30〜 の出演です。

連日、総勢16名の方が日替わりで出演されます。

わたしが、この催しに出演するにあたって書いたプロフィールとメッセージを掲載しておきます。


profile :

三重県津市在住。

各地の舞台に立ったのち、関係と存在のうごめき、

今の身一つを、夏至、冬至、お彼岸など季節の折々に、

屋内外の様々な場所との間に投じることを続けている。

2024年、この行為を「まをふ」と命名する。

併せて、聞く、見る、話す、居ることを通じて、対峙し、

互いの存在をことほぐ、場の芸能「間の会」を開いている。

他に『間の舞台』(橋本仁美と共同)、『舞台と座』、

『からだを見合う実験室』(大崎晃伸、古川友紀と共同)など。

退場するその日まで、この世はすべて舞台。

専門化や細分化に向かわない

ローカルな綜合芸能としての全人的関わりの道(未知)を行く。

あなたがいるから、わたしがいる。


message:

昨年、『からだを見合う実験室』を

実施するため東京へやって来た折、

たまたま目に留まっていた、

この身体企画の告知に誘われて、

その時は、出演者も主催者も場所のことも全く知らなかったのに、

丸一日観覧しました。

わたしは随分前に東京を離れてから

身体の活動を始めましたが、

近年、再び、東京の方々とご縁が出来てきて、

東京でも身体の実演に立ちたいと思い始める中、

身体の実演活動で、改めて東京で名乗りを上げるに際して、

出来れば、誰かとの共演ではなく、

逃げも隠れも出来ない、何の効果も付帯しない、

ただ一人、身一つで立ちたいと思うようになりました。

このような成り行きで、

今回、この身体企画に出演させていただくのは、

最も相応しい、ある種の必然なのでしょう。

厳しい企画だと思いますが、

一方、楽しみで仕方ありません。

よろしくお願いいたします。

(『からだを見合う実験室』は、

観客と実演者とに分かれない、別の実演の形式です。

このように、同時に、

既存の形式とは異なる実演の形態も探求しております。)


大変長い文章で恐縮ですが、

今回は以上です。

いずれも、どこかでご一緒出来ることを楽しみにいたしております。


以上の件、すべてお問い合わせ、ご連絡先は、

● メール:aidanokai2015@gmail.com  間の会 西脇秀典

です。


最後までお読みくださり、ありがとうございました。

2024年7月15日 間の会 西脇秀典

間の会 on Instagram: "賛同とメッセージ、引き続き募集中です。 「第八回津久井やまゆり園事件を考える集会 inみえ」への団体及び個人としての賛同と協力のお願い   拝啓、時下ますますご

3 likes, 0 comments - aidanokai on July 17, 2024: "賛同とメッセージ、引き続き募集中です。 「第八回津久井やまゆり園事件を考える集会 inみえ」への団体及び個人としての賛同と協力のお願い   拝啓、時下ますますご清栄であることにお喜び申し上げます。平素より貴下の諸活動から有形無形のはげましと示唆を頂き、厚く御礼申し上げます。  第八回津久井やまゆり園事件を考える集会実行委員長をつとめます間の会代表の西脇 秀典と申します。  さて、このたび、来る2024年8月3日に「第八回津久井やまゆり園事件を考える集会inみえ」を下記の通り開催することにいたしました。今回は主催として有志で実行委員会を立ち上げ、共催として任意団体・間の会とNPO法人・ピアサポートみえで行う形で運営いたします。  この集いは、2016年7月26日に神奈川県相模原市の障害者支援施設「津久井やまゆり園」で刃物による大量殺人事件により亡くなった方々の追悼と同時に、重軽傷を負った方々に思いを馳せるものです。  この事件の犯人は「意思疎通の取れない重度の障害者は安楽死させればいい」との信念のもと犯行に及んでいます。これを異常な考え方の犯行と断じることは出来るでしょうか?わたしたちは普段から重度の障害者と接する機会を与えられているでしょうか?何故、わたしたちの身近には重度の障害者の方々がもっといないのでしょうか?この事件は、犯人が死刑判決を受けたから解決したわけではなく、わたしたち一人一人の意識や社会のあり方に大きな問いを投げかけています。この事件の投げかける問いはあまりにも大きく、わたしはこの事件について考えることをやめてはならないと思います。犯人の考え方は重度の障害者ばかりでなく言語やコミュニケーションの仕方の異なる人をも否定しかねません。  共に生きるにはどうしたらいいのか、一体、一人一人それぞれどんな思いを抱いているのか、事件の再発防止や事件の背景なども含めて一人一人がそれぞれの視点で考えつづけ、結論を決めつけるだけでなく、それぞれが他者の意見に対しても開かれたものでありたいと思います。  そこで、今集会は、私たち一人ひとりが思うこと、感じていること、考えたいことに触れ、自身の思いを掘り下げ、互いの考えを尊重しながら考え続けられる場にしたいと思います。

Instagram

Nishiwaki Hidenori on Instagram: "-「からだを見合う実験室」について 所見 ... 西脇秀典 前回の「実験室」で、一人ずつを他の人が見るということをやった後、一人

1 likes, 0 comments - nishiwakihidenori on July 17, 2024: "-「からだを見合う実験室」について 所見 ... 西脇秀典 前回の「実験室」で、一人ずつを他の人が見るということをやった後、一人の方が、「からだが見えてこない」と言われました。それに対して、(今、他の人の前に立っていた)「さっきのわたしはなんやったん?」との言葉が出ました。ついで、先の方は、「自分が『からだ』と思っているものは何なのだろうか」と自問の言葉を発せられましたが、わたしは、ある意味、ここに「実験室」でのとても大きな出来事が起こり始めていたように思います。しかしながら、ここで起ころうとしていたことを、それ以上深められなかったという悔いも残りますが、何より「残る」ということが大事であったのではないかとも思います。 また、わたし自身のことで言えば、やはりある方のを見た後、こう見えていると思ってはいたものの、はっきり自信が持てず、こう見えた、ではなく、こうでしたか?と疑問形で聞いてしまったところがありまして、これは、とてもしくじったなと後々思いました。 「からだを見合う」と銘しているのですが、まずもって、どうしたら、「からだを見る」ことが出来るのか。「見合う」のですから、「見る」だけでなく、「からだを見られた」ことになるのか。ただ、見ているだけで、「見た」「見られた」と言えるのか。 この集まり、ただ、「見る」と「見られる」だけで成立しているわけではないのではないかと思います。言葉でのやりとりは、「見る」と「見られる」の実態の部分に大きく影響します。というか、言葉でのやりとりによって、何かが起こったり、起こらなかったりします。 「からだが見えてこない」のであれば、そこに居た人も、居なかったことになってしまいます。少なくとも、そのくらいの強い出来事がそこに起こってしまいます。 では、ここで言っている「からだ」とは何なのでしょうか? 「からだ」という言葉の語源を辿って、「からだ」とは何を表してきたのか、その来歴を調べることは、ある程度は可能ですが、それで何かが分かるというのも違う気がします。 そこには、今、その人が発した「からだ」という言葉の器に何が入っているのか。「見えてこない」という言葉は、そこに何を起こしているのか、非常に個別の出来

Instagram

0コメント

  • 1000 / 1000