【からだを見合う実験室】(東京開催・間の会主催ではない推奨の催し)※定員に達しましたので、既に申し込みは締め切っております。

昨年の10月以来ですが、2月18日(日)に、また、東京世田谷区で【からだを見合う実験室】を行います。

なかなか各地で行うまではいかなくて、それほどの頻度でも出来ないのですが、わたしにとって非常に大切な場ではないかと思います。

申し込みは既に定員に達しており、新規の受付はキャンセル待ちのみとなりますが、ご案内の文章をまだこちらには掲載していなかったので、掲載します。


【からだを見合う実験室】(東京開催・間の会主催ではない推奨の催し)

日時:2024年2月18日(日)13:00〜18:00

場所:東京都世田谷区:瀬田地区会館・大会議室(地下一階)

世話人:大崎晃伸・古川友紀・西脇秀典

参加費:場所代カンパ

定員:10人(世話人含む)

FBイベントページ


長年感じていることですが、「聞く」と「見る」と、自分の場合どちらにより比重があるだろうかと思うのですが、多分、どちらも大事です。

もしかするとこれは、聞こえなくなったり、見えなくなったりしても、同じかもしれません。

世話人からの所見を以下に掲載します。


所見 ... 大崎晃伸

人に見られることは、見られる側の心と体に影響を与えます。

見られていると思うと緊張するし、場そのものが緊張していると感じられることもあるでしょう。場が緊張する、見られる側が緊張するのは、見る側の見方、視線のあり方が確実に影響していると思うのです。

見られる側を緊張させない、場をやわらかくするような視線のあり方はあり得ないのでしょうか?(あり得ると思います)

反対に、人に体を見られる側も、場の緊張を解きほぐすような、場への働きかけができるのではないでしょうか。(それは例えば何らかの動作として、はっきりと見て取れるものではないかもしれません。ただそこにいるだけでも、働きかけは可能かもしれません) あるいは、見る人が緊張している場合、その緊張を解くような。

見られる側を緊張させないような、あるいは緊張を解くような視線。見る側や場の緊張を解くような体のあり方、存在のしかた。個人的には、そんなことを探っていけたらと思っています。

「からだを見合う実験室」は、見ることを試せる場所、見られながら存在することを試せる場所です。そして、一期一会の場所です。


所見 ... 西脇秀典(2024.1.31)

「見る」と「見られる」の、出来る限り、ただそれだけをやりたいと思っています。

「見せる」必要はありません。

「見る」と「見られる」という関係の中で、そのまま、最も居たいように居てくださったらいいので、もちろん、そこでなんらかの「見せる」ものがあれば、そう居てくださっていいと思います。

また、見られたくないものを見せる必要もありません。

その時、からだから現れてくるものを「見る」に過ぎないので、例えば、何らかの「秘密」を明かす必要もありません。見られたくないものを隠すということも、「居たいように居る」に含まれるでしょう。

「見る」側は、極力、「見る」だけを行うので、「評価」や「解釈」はしません。あるいは「評価」や「解釈」は「見る」とは別のことなので、そうする人がいたとしても、それは「見る」とは切り分けます。

「見た」後に、「見た」後の時間を味わいますが、ここでも「見た」ことを、無理に言葉で説明する必要もないかと思います。

「見てしまった」からだが、何を発するのか、言葉も場合もあるし、沈黙の場合もあるでしょうし、「見てしまった」からだが表すものを味わいます。

「見る」者も「見られる」者も、出来るだけ正直に行きましょう。

けれど、「嘘をつきたい」というのもあっていいと思いますし、そこも正直に行きましょう。

ただ頭で考えた作為は大抵からだに現れます。そこは丁寧に見ていきます。

「秘密」を明かす必要はないですし、「見られたくない」ものは、極力隠していただいていいと思いますが、からだが何をあらわし、そこに何を見てしまうかは、必ずしも、意のままになりません。この「意のままにならない」ところが面白いところではないかと思います。

「見る」側も「見られる」側も、いずれも「意のままにならない」面があります。

解釈も評価もなしに「見る」と言っても、それぞれ「見る」枠組みみたいなものから、なかなか逃れられません。しかし、その「枠組み」を出来るだけ外してみる、あるいは、それはどんな「枠組み」だったかを、今一度意識してみるということはいかがでしょうか。

枠組みを外して、ただそのまま「見る」ということは、どこまで可能でしょうか。あるいは、可能ではないのでしょうか。

いずれにしても、交代、交互に行いますが、特定の誰かが一方的に、「見る」わけでも、「見られる」わけではありません。「互いに」が重要になります。

「互いに」「見る」「見られる」のですから、その関係性の中で、どう在る、どう居るのが、最もフェアで、最も面白い、充実した時間であるのかを探ります。より、ただ「見る」「見られる」を体験できるように、自発的に出てくる案を色々やってみましょう。

世話人は、そういう場所を設定いたしますが、誰が主で、誰が客ということはありません。

自分自身が自分(のからだ)だと思っているものと、人によって「見られた」自分(のからだ)が、交錯することで、そこに人間存在の一筋縄ではいない多層性が現れるものと思います。複数の人に「見られる」のですから、同じものを見ていても、それぞれ見えたと認識されるものは異なるでしょうし、尚更です。自分が自分だけで存在していない間存在の不思議に触れることが出来るのではないでしょうか。

こういう場は、実は世の中にほとんどありませんので、想像しにくいかもしれませんが、わたしは、これまでやってきて、とても豊かで、ひらかれる場ではないかと思っています。


所見 ... 古川友紀

「体を見合う実験室」の世話人をしはじめてから1年以上が経ちました。

この実験室のことを話題にすると、人はよく体を場に差し出すことへの抵抗や戸惑いを口にされます。

略して「お見合い」と言い表せれるかもしれないのですから…むべないことかな。

私自身は見方を解きほぐす場だと思っています。

それは、初めて参加した時、見ること/見られることがわたしの/あなたの体をほぐしていると感じたからです。それは大きな発見でした。

回を重ねる度に、どう見たのか、なぜそう見たのかを自問しています。

 まなざすことでほぐれてゆく

 

最近は、街を歩くなかで目にとまった物事についても、同じような経験をすることがあります。

自分の周りの小さな事象、ちょっとした変化や何かの痕跡が目にとまったとき、そこに触れたようにも感じるのです。見ることで。

 

 一つの小石を拾いました なぜこの小石を手に取った?

 

                     2024/01/24 古川友紀

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