10月28日(土)【からだを見合う実験室】(東京開催)のご案内です。
10月28日(土)【からだを見合う実験室】(東京開催)のご案内です。
【からだを見合う実験室】、今月は東京で開催します。間の会主催の催しではありませんが、推奨の催しです。
要申し込みで定員がありますが、どなたでも、関心のある方はお申し込みください。
◆からだを見合う実験室(東京開催)
●日時:10月28日(土)11時〜16時(終了時間は前後する可能性があります)
●会場:上祖師谷一丁目区民集会所 大会議室
(京王線・千歳烏山駅西口 徒歩10分)
https://www.city.setagaya.lg.jp/.../004/005/d00004186.html
●世話人:大崎晃伸・古川友紀・西脇秀典
●参加費:場所代カンパ
●定員:10人(世話人含む)
※人数を把握したいので、事前に申込をしてください。
「みる」は、能動的なことなのか、そうでもないのか。
「みてしまった」のは、そうしたくなくても、もう取り返しがつかない。
「みる」と「みられる」は両方で一つかもしれない。(西脇)
「からだを見合う実験室」について
(随時更新)
所見 ... 大崎晃伸
からだを見るとはどういうことでしょうか?
からだを見るというとき、私たちは何を見ているのでしょうか? 何をしているのでしょうか?(これは「ダンスを見る」ということにもつながる問いだと思います)
皮膚やその上に纏われている衣服など、表面でしょうか?
筋肉や骨が形づくっている、かたちでしょうか?
その人の動きでしょうか?(動きといっても、表面に表れるものだけでなく、その動きが体のどこから起きているかということや、体の内部で起きている動きもキャッチできるかもしれません)
行為でしょうか? 表現でしょうか?(行為や表現とは何でしょうか?)
動きや行為の背後にある、意志や決断のようなものでしょうか?
男らしさ、女らしさのようなジェンダーや、「この人はこれくらいの年っぽい」という年齢など、社会的な要素でしょうか?
顔でしょうか?(からだを見ると言いつつ、どうしても顔に目が行ってしまうことは多いです。顔が発している情報は強く、また多いので、顔を見ると体の印象が変わってしまうこともあります。だから私はあえて顔を見ないようにすることもあるのですが、やはり顔は見たくなってしまいます。顔は魅力的です)
その人が作り出している、あるいは、その人と共に存在している時間でしょうか?
その人が発している音を聞くでしょうか?
その人とその人を見ている我々が作り出している場の空気、雰囲気、場に流れている時間を見たり、感じたりするでしょうか?
最後のほうは、単純に「見る」とは言えない行為かもしれません。
また、見るとは知覚することだけなのか? 見るとはもっと能動的、積極的な行為でもあるのではないか? そういう問いかけもありえます。
見るやり方を変えることもできるでしょう。座って見る。立って見る。寝て見る。見る場所を変える。歩きながら見る。動きながら見る。見ない。目をつぶって見る。聞く。嗅ぐ。感じる。目で触る。
また、見るということをしている最中、見ている人の心には、さまざまなことが湧き上がってきているはずです。もちろん、見られている人の心にも。
今まで書いてきたことの他にも、もちろん、見るという行為の最中に起きていることはたくさんあるはずだし、起きていても認識できなかったり、うまく言語化できない事象もあるでしょう。
「からだを見合う実験室」は、劇場でからだを見るのとは違う楽しみがあります。存在をありありと感じる距離感で他者の体を見て、見た側も見られた側も、その経験をシェアする。目の前で起きていることをまるごと味わう感覚です。
と、長々と言葉にしてみましたが、うまく表現できているとは思いません。
「からだを見る」ということを味わいたいと思います。
所見 ... 西脇秀典
「からだを見合う実験室」の軸になっているのは、「からだを見合う」ということと、事前に何をするかも決めず、現場でも誰か特定の人がリードするとかファシリテートするということをしないということではないかと思っています。世話人という名義の人はいるのですが、この世話人の在り方についても、毎回、世話人間で振り返ったり、話し合ったりしています。何よりも、参加者一人一人が、より深く、強く、その場に関わってほしいと思っているので(少なくともわたしは)、その人が、この5時間という時間をどう過ごしたいかという意思決定の主体性を、世話人が奪いたくないように考えています。そのような背景があるので、一般的な意味のワークショップとは異なります。それと、有志が集まって、ちょっと色々試してみようという自主練みたいなものとも少し違うように思っています。ここはなかなか言語化の難しいところですが、毎回、それぞれが色々な味わいを持ち帰り、それについて反芻したりして、それでも、また、再びやりたいと思い、遠くから集まって実施するわけですから、何か、強いモチベーションから発する動きはあるように思っています。
前回、京都で行った時には、様々な提案があり、そこから次第に流れが生まれました。
「わたしが居たいようにいる」と「このからだが居たいようにいる」との質感の違い、とか、
この「居たい」と「いる」自体が、別のことではないかという探究の結果、最終的には、
「今、ここに、このからだが、ある」ということだけをやってみることに至りました。
この局面では、もうほとんど、それぞれ微弱な動きしかなく、それを見る時空も、どんどん重心が下がっていったように感じられました。
今まで見ていたのとは全く違うからだの表情が現れてきた人がいたり、
「通常の一方向に流れて行く時間とは別に、縦に流れる時間があった」とか、
ほとんど微動だにせず座っているからだに、見る人が、過去の重大な決断の時の、自身の姿を見た、というようなことが起こりました。
明らかに、何らかの時空の変容が起こっていたと思います。
帰り道に、参加者の方から、仏像の視線という話をされたことも印象に残っています。
仏像の視線は、実際に見られているわけではないのに、何か安堵するような、見守られている感じと、見られていると何かおかしなことをやってはいけないような、居住まいを正されるような側面とを持っているように思います。これは、一般的な意味でオーディエンス的視線とは異質のものです。こうした視線が実際に、実験室の中で起こっていたのかどうかは分かりませんが、そういうものを喚起する何かはあったのでしょう。
また、ここでは、何か達成したい目的を設定しているわけではありませんので、「ある意味、とても反社会的ですね。」という感想もいただきました。
何故、前回、このような時空の変容が起こったのか分かりませんが、全て、その場に集まっていた人から、その場で発せられた言葉から、やることを見つけていきました。その場で生まれたものです。
ですので、前回は前回でとても深い味わいがありましたが、それをまた再現するとか、同じようなことをやってみようということもありません。多分、繰り返し同じ質感も求めても、面白味はないでしょう。
誰が集まってくるか、そして集まった人が、その時、その場でどのようにいたいか、何を欲しているかによって、この場は決まっていきます。そこが何より面白く、スリリングなところです。
仏像の視線ばかりでなく、様々な視線、色々な質感の「見る」があってよいでしょう。色々試してみたいです。視覚的に見えない人の「見る」にもとても関心があります。それは、そういう方といると、わたし自身はとても「見られている」ように感じるからです。
その場で起こってくる主体性と主体性の間に、恐らく、何らかの大切な重心が生まれてくるように思っています。世話人として出来ることは、参加者の主体性を奪わないように、自身の主体性を譲らないようにすることだけだと思っています。
ぜひ、ご一緒に、この時空を作っていきませんか?
所見 ... 古川友紀
見るとは不埒なもので
こちらの心境や状況によって
あっちと見たり こっちと見たりする
切り結びと見たり
信頼と見たり
搾取と見たり
応酬と見たり
羨望と見たり
理想と見たり
幸せと見たり
見るということの信じられなさが 閃光している
その信じられなさを小石のように掌握して歩いていると
気がついたらある場にいた
そこでは 見合う ということをするのだという
見合うことで 見ることの不埒さを照り返すのだろうか、わからない
ただ 見ることが あなたの体と 接触 する
補遺:この所見の前半は、主に舞台作品における「体を見た」時のことを書き始めました (古川)
以上の件、すべてお問い合わせ、ご連絡先は、
● メール:aidanokai2015@gmail.com 間の会 西脇秀典です。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
2023年10月20日 間の会 西脇秀典
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