明日6月8日(木)の【ご縁の間の会 万松山 専琳寺さまにて】、今月のスケジュール、京都で開催の【からだを見合う実験室】のご案内。

皆さま、

こんばんは。

全体としては、とても長いものになります。前半にスケジュールをまとめました。

明日は【ご縁の間の会 万松山 専琳寺さまにて】です。

特に夕方、雨になりそうな予報ですが、ぜひお越しください。


◆ご縁の間の会 万松山 専琳寺さまにて

●日時:2023年6月8日(木)13:30〜16:30

●場所:津市大門 万松山 専琳寺(津観音の東、立町商店街を抜けたところ)


あくまでも、私がそう思うということに過ぎませんが、「間の会」は「集まる」ということを行っていますが、そこで、互いに「聞く」「見る」ということは大事だなあとは思いますが、それを丁寧に行っていくことは、細かい差異を無視して共感ベースで話を進めるのとは異なってきます。ですので、「集まる」ということを通して、より「一人」になれる場だなと思っています。

そこは、ちょっと映画館とかと似ているかもしれません。


さて、今月のスケジュールです。日付順にしました。


1、ご縁の間の会 万松山 専琳寺さまにて

日時:6月8日(木)13:30〜16:30

今年の予定では、後は、7月6日(木)、8月17日(木)以外、第二木曜日です。

場所:津市大門 万松山 専琳寺(津観音の東、立町商店街を抜けたところ)

FBイベントページ


2、ごちゃまぜ 人間の会

日時:6月11日(日)13:30〜16:30

場所:津センターパレス地下一階 津市市民活動センター 研修室

呼びかけ人:西脇秀典・松田愼二

FBイベントページ


3、◆間の会主催以外の推奨の催し◆

【からだを見合う実験室】

日時:6月17日(土)12:30〜17:30(京都開催)

世話人:古川友紀、大崎晃伸、西脇秀典

場所:京都市左京「西部」いきいき市民活動センター  会議室1

参加費など:場所代カンパ、申し込みが必要です。定員あり、世話人含め10名まで

申込:arcotemponokai@gmail.com(古川)

※または世話人の古川・大崎・西脇のいずれかにメッセージいただいてもOKです

FBイベントページ


4、間の会 夏至の祭り

日時:6月21日(水)日没前後

場所:未定


5、月々の間の会

日時:6月25日(日)13:30〜16:30

※今年も場所が取れない場合や例外を除き、基本は第四日曜日になります。

場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター 2階集会室



【からだを見合う実験室】のことについて、Facebookに書いた文章を転載します。

その後に、世話人それぞれからの所見も転載します。


こちらをお読みいただくと、「間の会」として推奨する理由もご理解いただけると思います。

「見る」ことと、「聞く」こと、それは、どうも、それに徹していくと、とても質感の似たことのように思います。目だけで「見る」のでもないし、耳だけで「聞く」のでもないようにも思います。実際のところ、「見る」とか「聞く」というのは、何をすることなのでしょうね。あるいは、「からだ」とは何なのでしょうか。



【「からだを見る」とは何をすることか】

書きます。

【間の会のお便り】にも既に載せていましたが、【からだを見合う実験室】を、京都開催は三度目になりますが、6月17日(土)に京都で行います。今回は、古川友紀さん、大崎晃伸さん、西脇秀典の三人が世話人となります。

イベントページにそれぞれ所見を書きましたので、出来れば、それもお読みください。

それとは別のことを少し書きたいと思います。

「からだを見る」というのは、実際のところ、どういうことをすることでしょうか?

「見合う」というのは、この場合、互いに見合っている状態のことではなく、お互いに、じっくり「見る」ということを交互にやることと考えています。

そして、この「からだを見る」ですが、これは文字通り「からだを見る」のであって、芸を見るわけではありません。

「からだを見る」ということを、お互いの了承の下に、存分に行うのですが、その場合でも、やはり、いかに、ただ、「からだを見る」ということだけに徹するのか、ということが鍵になってくるように思います。

それは、解釈したり、判断したり、批評したり、比較したり、するのではなく、ただ「見る」ということです。そして「見た」ことをいかに伝えるのかも鍵になります。

例えば、「長い」とか「短い」とか「太い」とか「細い」とか「小さい」とか「大きい」とかは、ほぼ、何かと比較してしまっています。もちろん、単純に「まあ大きい!」とか「まあちっちゃい!」とかいうことはあるでしょうけれど、それは、これまで知っている他者と比較してのことなのか、ある種の標準と比較してのことなのか、単純な驚きであっても、全く何も比較していないということはないでしょう。

あるいは、一般的に、人のからだをじっくり見るということは、日常の場面では、あまりしてはいけないことになっています。そこをあえてするのですから、ある種の暴力性や危険は孕んでいます。

例えば、ある種の視線は性的な視線と呼ばれたりします。

また、ルッキズムとかエイジズムなど、近年強く考慮されるようになってきている考え方に抵触する場合もあるでしょう。

その場合、どういう見方が、「性的な視線」にあたり、「ルッキズム」や「エイジズム」にあたるでしょうか?

当然、異性や年齢の違う人のからだをじっくり見るわけですから、そして、そこに、何がしか、見て「面白い」とか「印象に残る」とか、様々なきっかけがあって、その「見た」ことを伝えようとするわけですから、少なくとも、何か動かされるものがあって、「見た」と言えるわけです。

それは、ある種の「欲望」や「快楽」を刺激するものかもしれません。

そこで「見た」ことを、相手に指摘することによって、その相手が、何か傷ついたりしたとすれば、そこには何らかの「問題」があったということになります。

しかし、ここは、このやりとりを、より慎重に見ていく必要があると思っています。

私は、恐らく、何か他者や標準的な姿との比較ではなく、その人そのものの「からだ」を、「ただ見た」と言えるのは、その「からだ」が、何かを語り出した時ではないかと思っています。

それが、手の甲なのか、首なのか、皮膚の皺なのか、顎なのか、背骨なのか、胸骨の辺りなのか、目なのか、耳なのか、どこになるか分かりませんけれど、「からだ」が、おのずから語り出してくる時があるように思っています。

場合によっては、衣服や、その空間自体が、「からだ」として語り出すこともあるかもしれません。

むしろ、それらを待ちたいと思います。

それでも、それを指摘されて傷つく人もいるだろうと思います。そこに、何らかの、人に触れられたくない個人的な来歴があるかもしれません。

それを深く掘り下げていくとか、穿り出すようなことがいいとは思えません。

けれど、自分自身が、自身の「からだ」に対して、何かと比較するような尺度で捉えている場合、人からの指摘を、そのまま受け止められないということもあり得ます。

しかし、その人そのもの以外何者でもない、その「からだ」のことを、比較せずに「見る」ことに徹して行きたいとも思います。「見る」とは、ある意味、「語り出すからだ」の声を聞くことでもあります。

極力、そういう場に出来るよう、視力を澄ませて行きたいと思います。

比較しているのは誰なのか、「見る」側なのか、「見られた」側なのか、そういうことも、互いに、視力を澄ませて行けば、明らからになっていくように思います。

これは、私自身の願いであって、それが、自分で十全にできるとは思っていません。

そういう場を共に作って行きませんか?というお誘いです。

ですから、とても安全な場とは言い切れない面はあります。

でも、様々な比較によってがんじがらめになっている世の中の視線から、いっとき解放されるような、そういう面も持っているのではないかと思います。

比較せずに「見る」ということは、確かに、それなりに経験を積んだりしないと難しい面もあるかもしれませんが、互いに、指摘し合える場があれば、それは少しずつでも可能だろうと思っています。

「実験室」ですから、何が起こるか分かりませんし、どこに向かおうとしているのかも分かりませんが、行うにあたって、私の願っていることを書いてみました。

願っていることは、他にもたくさんあります。

また別の角度から書いてみることもあるかもしれません。

いずれにしても、これは、かなり実験的な場だと思いますよ。それは脅かしているのではなく、その分、本当に面白いと思います。

ですので、定員以上の人数は受け付けることが出来ないのです。

ここに書いたことは、もちろん、そういうことが起こるとか、出来るとかを保証するようなものではないですが、こういうことを目指してやりたいと、少なくとも、私は思っているのです。

ですので、例えば、自身の「からだ」を大切に出来ない、「からだ」に愛着を感じない、むしろ、嫌悪感がある、とか、人から見られること、人からの視線に、不安や恐怖などがあるという方にも、むしろ、参加をお薦めしたいと思っていることを、最後に付け加えておきたいと思います。

以下は、Facebookのイベントページに掲載した、世話人それぞれからの所見です。



「からだを見合う実験室」について


所見 ... 古川友紀

文字通り、一人一人の体のありようや動きを観察したり、それに対して言葉や体でフィードバックしたりする実験室。

5時間過ごすうちに、見えてくるもの、生成されること。

その進み行きも含め。


所見 ... 大崎晃伸

 昨年からやってきた「からだを見合う実験室」も、それなりに回数を重ねてきました。三重や東京の会も含めると、私が参加するのは8回目になります。身体を見合うことは「実験室」の軸として大事にしたいと思いながら、私自身の関心は、そのなかで少しずつ移り変わっています。

 今の関心として、新しい身体の見方を発明したい、探りたい、ということがあります。(「新しい」というのは、「オルタナティブな」という意味で) 動かずに座って、一方向から(+静かにお行儀よく?)見るというのが、劇場やそれに類する場所で上演芸術を見るときに要請される見方です。たとえば、このロックをすべて外してみたらどうなるでしょうか? 見るときに、立ったり、場所を変えて見る。寝転んで、パフォーマーを見上げる。パフォーマーの動きに反応して動きながら見てみる、あるいは、パフォーマーの動きをトレースしながら見てみる。そうしたら、見えるものは、あるいは、見るという経験は、変容するでしょうか?

 見られる側と見る側、パフォーマーと観客の距離や配置、数によっても、見えるもの、あるいは、パフォーマーにとっての「見られる」という経験の質は変わるかもしれません。

 新しい見方を発明するには、見るという経験の更新が必要でしょう。この「実験室」は、見るという行為を積極的に試せる場でもあると考えています。

 そして、新しい見方と、コトバはセットだと思います。何が見えたのか。その見え方に新しさはあるのか。コトバにすることはいつも容易ではありませんが、参加されるみなさんのお力も借りながら、やっていきたいと思います。

 見ることの実験、あるいは、見られることの実験をしたいです。この「実験室」の先に、何があるのかはわからないですが、次なる実験につなげていきたいという思いもあります。

 とはいえ、身体を見合い、それをコトバにし合うことは基本です。そして、参加してくださった方々のお話をうかがいながら、進めていきたいと思っています。また、集中して見ることやそれをコトバにすることは大変なエネルギーを使うことなので、見るのに疲れたら、休んでもいい場にしたいと思っています。それぞれのやり方で、その場に存在してほしいです。

 当日、お会いできることを楽しみにしています。


所見 ... 西脇秀典

昨年から始まった、この場ですが、毎回、色々な発見と、驚きがあり、世話人になったメンバー間でも、様々なやりとりや話し合いをしながら、これはどういう場なのか、何をやって行きたいのか、探っています。

しかし、いずれにせよ、大変な未知の可能性を秘めた場だと思います。

世話人は毎回起こったことについて、色々話し合ったりはしていますが、世話人が何かを導いていくわけではありません。世話人は、集まった人が、その人自身がその人自身のいたいようにいられるように、またテーマから逸れないように意識を持っているに過ぎません。一方的に見せるだけの場、一方的に見るだけの場、一緒になって何かをやる場、また、何かを教わるとか、習得する場などのいずれとも異なっています。

本当に、お互いに「見る」ことと「見られる」ことをじっくりやります。どちらも「見る側」になり、「見られる側」にもなるので、「見合う」と呼んでいます。これは一応、この場のテーマです。

「見られる」ことで、色々な自覚していない機微が発見されてしまうかもしれません。そして、ジャッジするのではなく、極力、ただ「見る」ことを行いながら、明らかに無視できないものを「見てしまった」ということを伝え合います。これも何を伝えてもいいのですが、単なる感想、批評、解釈よりも、「見てしまった」ものの方が、より明らかで、確実であるというに過ぎません。あるいは、比較、でもなく。

また、見られる方は、何かを「見せたい」のか、何もすることがないのか、それはどうあれ、「見られている」状態で、いたいようにいる、ということだけだと思います。

人前に立つことの経験とか、スキルとかは全く関係ありません。人前に立つことを意識したことのない方は、非常に豊かな、からだの表情をしているようにも思います。また、人前に立つ表現をしている方は、むしろ、人前に立った時に、無意識にこういう構えをしてしまうということも、丁寧に見ていくと、見えてくるので、そうしたことを伝え合っていくと、無意識のうちに人にこう見られるようにと振る舞っていた部分に気づくかもしれません。身についてしまったものも含め、その人本来のからだとは一体何なのでしょうか?

「見る」側からは、それぞれ、その人は、その人が見た景色しか見られません。他の人が見た景色を見ることは出来ません。他でもない自分自身が「見た」「見てしまった」ものを伝えることしか出来ません。それぞれが「見た」「見てしまった」ものを伝え合うことで、重層的に「見られた」ものが浮かび上がってくるのではないでしょうか。そして、重層的に「見られた」ものが浮かび上がってくることで、「見られた」その人のからだは、どのように変容していくでしょうか。

色々と関心が尽きません。

そういえば、人間には、個別に、色々な能力がなかったり、欠けていたり、何かが出来なかったりということはありますが、「からだ」のない人間はいません(亡くなった人は、ないのでしょうね)。

それに尽きると思います。

それぞれ、人のどんな様子を面白いと思うのだろうか、人の様子を見る時に、どんなことを見ているのだろうか、そんなことにある人で集まって、色々実験したいと思います。ダンスや舞台に立った経験など、全く問いませんし、関係ありません。こんなことに興味のある方、からだを動かしてみたい方でも、からだは全く動かないという方でも、何となくピンと来たら、どなたでもご参加可能です。自分の振る舞いやからだは、どんな風に見えているものなのか、そういうことに関心のある方や、人に見られるのが居心地悪いと思う方にも、ぜひ、ご参加いただきたいと思います。

ただ、積極的に、その場に関わってくれる方を募集します。

丁寧に見たいという思いがあるので、定員は10名までとしています。

見る人も見られる人も、どちらもが主であり、どちらもが客でもあります。



以上の件、すべてお問い合わせ、ご連絡先は、

● メール:aidanokai2015@gmail.com 間の会 西脇秀典です。


最後までお読みくださり、ありがとうございました。    

2023年6月7日   間の会  西脇秀典

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