【間の会のお便り】2022年3月7日を掲載いたします。
皆さま、こんばんは。
【間の会のお便り】2022年3月7日を掲載いたします。
これは7日に書き終わっているのですが、郵送は既にお送りしたものの、メール版、Web版の送信、公開が遅れていました。
まず、明日、非公開で歩く間の会を行うと書いてございますが、わたしのあまり体調がよくないので、わたし自身は移動することを断念しました。それぞれの場所にて、それぞれのこの日をお過ごしください。
体調があまりよくないということもありますが、郵送してから、また、色々なことを考えておりました。
お便り中、対立するような特性の人同士のことを書いていますが、この際、イ・チャンドン監督の『シークレット・サンシャイン』(2007年)という映画のことを思い出したりしました。フィクションのお話ですが、ある事件の被害者と加害者が対面する、大変悲痛な場面があります。あのような場面を描かねばならなかったことを繰り返し考えます。何もフィクションのことを思い返さずとも、今、まさに銃口を向けられて殺されるかもしれないという人々がたくさんいるわけです。それでも、こんなことを書かねばならないのかと思いますが、書かなければなりませんでした。感情に対して非常に過酷な態度を表していますが、それは、わたし自身が非常に感情的な人間であるからかもしれません。これは呼び掛けの文章ですが、どこか自分のために書かざるを得ないところがあるのかと思いました。「間の舞台」のご報告の箇所も、多くの参加者の皆さんの言葉をご紹介していますが、それは、わたしに強く残った言葉で、参加者の皆さん、それぞれの豊穣な体験に対してある一側面のみを描いているに過ぎません。いつもに増して、こうしたものをお送りすることに対して、郵送後、激しく揺らぎましたが、郵送でお送りしたものは、そのまま以下に掲載します。ただ、今回は、こうした前文をつけずにはおられませんでした。
では、以下に続きます。
◇ 【間の会のお便り】 2022年3月7日 ◇
みなさま、お元気でお過ごしですか?少し寒さが緩む日も増えてきましたね。
寒いのが大変苦手なわたしにとっては少しほっとするこの頃です。
長い期間をかけて準備してきた「間の舞台」を開催することが出来ました。その報告は後半の方に書きました。
この3月5日は啓蟄の日で、毎年恒例ですが、河原の水際で鳩や水鳥たちに囲まれドロドロになって蠢いてきました。
雲も青空も水の流れも、鳥たちの声も土の匂いもからだ中に沁み渡ります。
戦争と悲痛なニュースが間断なく入って来て、緊張の日々ですが、そういうことも反映されているかもしれません。
一、ご縁の間の会 万松山 専琳寺さまにて
日時:2022年3月16日(水)13:30〜16:30
場所:津市大門 万松山 専琳寺(津観音の東、立町商店街を抜けたところ)
二、春のお彼岸 間の会
日時:2022年3月20日(日)15:00頃〜19:00頃
場所:津市役所北、お城西公園の東屋
三、月々の間の会(3月)
日時:2022年3月27日(日)13:30〜16:30
場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター 2階集会室
四、ご縁の間の会 万松山 専琳寺さまにて
日時:2022年4月13日(水)13:30〜16:30
場所:津市大門 万松山 専琳寺(津観音の東、立町商店街を抜けたところ)
五、月々の間の会(4月)
日時:2022年4月24日(日)13:30〜16:30
場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター 2階集会室
※毎年、3月11日を共に過ごすという集まりを行っていましたが、
今年は、この日、別の場所で過ごしたいと思い、特に催しではありませんが、
非公開で歩く間の会を行いたいと思っています。
場所は未定です。非公開ですが、関心のある方はお問い合わせください。
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「人それぞれ」という言葉を時に耳にします。
「人それぞれ」だから違って当たり前というほどの意味でしょうか?
この、「人それぞれ」が「違う」というのは、「違う」からどうするということが往々にして抜けています。
「人それぞれ」は出発点かもしれませんが、結論のようになると寂しいものです。
詩人、金子みすゞさんの「みんなちがって、みんないい」という詩文も、元の文脈を離れて、ある時期から盛んに語られるようになりました。この言葉は「鈴と、小鳥と、それから私」という性質の違うものを、それぞれ違うけれどこの世にあることの感動が歌われているのだと思いますが、こうした感動も、安易に多用されると、単なる諦めになってしまいます。
人それぞれ、みんな違う、違っていいも何も、人と人は身体も頭も絶対に確実に取り換えがききません。同じものなど一つとしてありません。
鈴も一つ一つ違うし、小鳥も一羽ずつ、皆違います。
間の会は、そこから始めます。
「人それぞれ、みんな違う」とは一体どういうことなのか、身をもって体験する場です。
「人それぞれ」だから、これ以上話しをするのはやめましょう、とか、これ以上関わらないでおきましょう、ではなく、「人それぞれ」という当たり前のことが、どこまでも、身をもって明らかになって来ます。その覚悟で座ります。絶対に取り換えのきかない人と人同士が、ある一定の時間、場を共にするというのは、そういうことだと思います。
「話せば分かる」も通用しないかもしれません。では、通用しないから諦めるのでしょうか?
「人それぞれ」は、諦めではなく、出発点です。
言葉の通じない相手でも、主義主張の違う相手でも、境遇の違う相手でもです。
人と人は、どんなに望んだとしても、身体や頭を取り替えることは出来ません。移植したとしても、それは取り替えたことにはなりません。いのちも、抽象的なものでなく、具体的ないのちは、やはり取り替えることは出来ません。
しかし、人と人との間に必ずあるものがあります。
それが、「間(あいだ)」です。
間(あいだ)なしに人はありません。あらゆる生き物、事物、存在もありません。
間(あいだ)は存在とは別の次元のものですが、間(あいだ)があることで、それぞれの個々の存在が際立ちます。また、自他の区別を越える時があります。「いのち」は具体的なだけではなく抽象的にも語られますが、必ずしも精緻に定義しにくい「いのち」より「あいだ」の方がより明白なように思います。また、「いのち」を優先すると、亡くなった人との間が疎かになります。「間(あいだ)」は緩衝材ではなく、人と人を繋いでいるそのこと自体です。概念ではありません。
「人権」や「多様性」などの概念では、「間」のように確実に人と人を繋いでいることの代わりにはなりません。
場合によっては、「人権」や「多様性」などの概念が、実際に人と人とを繋いでいる間を奪い、遮ることもあります。
それぞれの個々の存在が違うというのは諦めても仕方のない事実です。そこから始めるしかありません。間が確実にあるゆえに、始められます。
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もう一つ、最近よく聞く言葉に「自己肯定感」というものがあります。
この言葉に、どうも常々違和感を覚えてきました。
「自己」を「肯定」するのは、「感」という、いわゆる「感情」とか「感覚」の次元の話なのでしょうか?
「肯定」と「感」というものが、どうしてもつながりません。
卑下するとか、誇らしいとか、得意になるとか、自惚れるとか、自信を持つというのは、感情かもしれませんが、「肯定」というのは、どうも「感情」とは全く別のことだと思えます。
今現在あるものは、すべて、皆、あるものです。それは、あるという以上、「肯定」以外の何でしょうか?
あるいは、「否定」ということは、「そうでない」ということは表しているかもしれませんが、これは、あるAというものや、Aという出来事は、Bというものや、Bという出来事ではない、ということでは言えるのかもしれませんが、いずれも、「否定」したからといって、「なきもの」には出来ません。何かをなきものにする「破壊する」「消去する」ということも、これ自体行為ですから、肯定でもあります。
「自己肯定」とか「自己否定」という場合、誰かが、その人のことを「あなたはダメだ」とか「あなたは間違っている」と言ったとします。しかし、それは、誰かが「あなたは間違っている」ということを言ったという事実、その人がそれを聞いたという事実があるだけで、これ自体、肯定でしかありません。また、自分自身で「自分はダメだ」「自分は間違っている」もしくは「死にたい」と思ったとしましょう。それは果たして自己を否定しているでしょうか?ここでも、「自分は間違っている」とか「自分はダメだ」とか「死にたい」と思っている自分があります。それは事実ですから、肯定するしかありません。なんらかの感情は生じるでしょうけれど、そう思っている事実を否定しても仕方ありません。むしろ、この事実を見ないようにすることが新たな苦しみを生みます。抗わなければならないのは、事実をなきものにする、見ないようにする働きに対してです。
ある意味、この世の中、あるものはある様だけであり、なきものはなき様だけがあります。
肯定一色の世界とも言えます。肯定と否定は、これも少し次元の違う話で、否定は肯定一色の世界で行われる別の働きです。一対のことではありません。わたしは「ありません」という否定を通じて、肯定一色の世界に触れようとしています。
そして、残念ながら、肯定一色の世界に「感情」や「感覚」の入り込む余地はありません。
生きていくのが大変でも、しんどくても、世界が肯定一色であることに変わりはありません。肯定は非情なのです。
人それぞれで、みんな違う、とは、あまりにも明白な事実で、「みんないい」とあえて肯定しなくとも、既に肯定されています。背景は知りませんが、金子みすゞさんは、むしろ、この「既に肯定されていること」の感動を歌ったのではないかと思います。それは、希望でも絶望でもありません。
「人それぞれ」から始めるというのは、一切の集団性とも、思い上がった孤独感とも無縁です。
間の会は、こうした事実を出発点に、それでも、その違ったものたちが、この世界に共にいるというのは、一体、どういうことなのかを探っていきます。悲しみの中でも、喜びの中でも、怒りの中でも、虚しさの中でも、それは変わりません。
そういうことに関心のある人に呼びかけておりますが、実を言うと、関心のない人にも呼びかけるのにはどうしたらいいのかということもずっと探求しています。わたしがこのように呼びかけて、集まって来られる人は、すでに、わたしや、ここに書かれていることに関心を持った方々です。ですから、すでに、ある種の同質性をもっているかもしれませんが、それでも、皆、「それぞれ」で「違って」います。けれど、こんなことは伝わらないのではないかという諦めはありません。まだまだ工夫は足りないかもしれませんが、これは伝わらないのではないかと諦めることは絶対にしたくありません。というか、元々、それぞれ違った人々に呼びかけているのです。それが確実には伝わらないところから出発して、それでも呼びかけるのはやめないというだけのことです。
例えば、「武力を行使することは絶対にいけない」という人と「大切な人や国土を守るのには武力行使が必要だ」と考える人同士、「大きな声で饒舌に話す人」と「賑やかでうるさいのが苦手な人」同士、「暇を持て余している人」と「生きていくのに精一杯で寝る間もない人」同士、「お金を儲けるのに熱心な人」と、「お金儲けに嫌悪感を抱いている人」同士、「深刻なのが好きな人」と「愉快なのが好きな人」同士、「何の不自由もない人」と「割りを食って不公平に苦しんでいる人」同士、「憎しみや怒り、悲しみに飲み込まれている人」と「感情に影響されたくない人」同士、「喧嘩や争いを好む人」と「仲良しや和を好む人」同士、「悪人」と「正義漢」同士、こうした人同士が、共に過ごすことは出来ないのでしょうか?当世ですと、「マスクを人にもつけて欲しい人」と「マスクをつけるのを人にもやめて欲しい人」同士というのも、かなり難しいように思います。非現実的で夢想的なことを言っているかもしれませんが、こうした人同士が、それでも共に過ごすということも、やはりどうしても願ってしまいます。もちろんそんなことは強制出来るようなことでもなく、誰に強制したいわけもありません。強制されたら地獄です。強制されることとは断固戦います。しかし、余計なお世話かもしれませんが、ただ、そう願わずにおれないだけです。いや、そんなことは日常茶飯事だという人も多いでしょう。けれど、日常から少し離れたところに、あえて、そういう場があってもいいのではないかということです。それぞれの間には、やはり「間」があるのですから。どれだけ異なるもの同士にも「間」があるということに圧倒されます。ただ気の合うもの同士だけ集まっていても世界は何も変わりません。新たな集団を生むだけです。集団は、それぞれの間を押し潰してしまいます。また、数の力に委ねるのは御免蒙りたいです。変わる変わらないではなく、より面白く行きたいものです。一人一人が同一地平の座につくということ、これをただ続けて参ります。
時事的なことに少し触れますと、戦争のニュースは日々、大きく気持ちを揺さぶりますが、しかし、わたし自身の感じることを言えば、ほとんど絶え間なく、世界のあちこちで戦闘状態が起こっていて、たくさんの人が亡くなっているというのに、今回のことだけ、殊更大きく戦争と扱っていることに、どうしても違和感を拭えません。
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先日、2月20日に津市のギャラリーVOLVOXさんで、「間の舞台」を行いました。2週間が経ち、特に体調の変化などのご連絡もなく、ようやくほっとしています。この舞台を企画し主催したわたしの側からは、参加者の皆さんの言葉や、その姿に大変感銘を受けたということと、なくなってしまうその空間が、ずっと残り続ける、なくなっても、あり続けるような、手応えを感じました。しかし、それは、言うまでもなくわたしの側からの景色で、実際に、わたしが感銘を受けた参加者の皆さんの言葉や、後からいただいた感想の言葉が色々なことを表しているので、少しご紹介しておきたいと思います。
「真剣であることが伝わってきた。」
「(座っている皆さん)一人一人の存在感、佇まいが素晴らしい。」
「一番の祈りの形。」
「全部引き受けて鎮めてくださっている。」
「二人が(三人が)人類の代わりに、引き受けて、救済してくださっている」
※(三人が)というのは、お一人、参加者の方にも中の舞台に立っていただきましたので。
「太古から繋がっている、始まりも終わりもない時間に戻してくれている。」
「日本人の心まで引き戻してくれている。」
「先を急がない。」
「人生さまよって、今日、ここに辿り着いた。」
「本来の人間として生きて行きたい。」
「代わりにこの場を鎮魂してくださっている。」
「この10年余りが走馬灯のようだった。」
「あの場所には正解も不正解もないような。」
「こちら側に浄化されるようなものがありました。」
「充実して心優しい時空を体験させていただきました。」
「皆様素敵でした。」
「私が生きさせて頂いている限り、ずーっと忘れないです。」
「心が震え感動しました。」
「全力で感じ取ろうとしていた故に、その夜は直ぐに眠ったのですが、夜中途中、目が覚めた後は、反芻が止まず、そのまま朝でした。」
などです。
また、意味は分からないものの、あえて手話のみで語ってくださった方がいて、その身振り手振りも忘れられません。
この舞台についての言葉とは少し違うかもしれませんが、ご自身が、お客さんのいないライヴハウスで演奏した時のことを語ってくださった言葉も強く印象に残りました。
これらの言葉は、確かに圧倒されますが、誇張とか大袈裟という風にも思いません。これらは、それぞれの人と人との間に実際に起きた事実なのだろうと思います。わたしは、その言葉や姿に現れたことを大事にしたいです。お褒めの言葉という風にも思いませんし、これらの言葉が発せられたこと自体が大きな出来事です。
何か催眠術のような、特殊な事が起こったかのようにも読めますが、皆さんの豊かさの表れのようにも思えます。
全然、違う感想を持たれた方もいるでしょうけれど、それは分かりません。
これらの出来事は、この舞台を企画、実行した者の手柄でも何でもなく、参加された皆さんが身をもって体験された事です。文字通り、その場の力とそこにいる人皆が作り上げていった祭りです。主催者側は、それらが起ることを願って、長い期間準備をしてきました。主催者側自身、折り合えない部分も含めて間にい続けることだけはやり遂げたのだと思います。しかし、やり遂げたからと言って、何もすっきりした感じや、達成感などはありません。まだまだそれでも、気になっている部分はいくつもあり、確信も持てません。取り返しのつかない一回限りの事とは、そんなものだろうと思います。
人と人、それぞれが、違って、その間に生きるというのは、やはり一種の祭りだと思います。
間の会も、日頃から、恐らく、そうした祭りの場を開いているのですが、「間の舞台」においては、それが、かなり、凝縮した形で起こりました。2時間という枠組みで、奥まった比較的閉ざされた空間で、中途の出入りもあまりしにくい状態で、限られた人数で、申し込み制で、参加費をあらかじめ設定して行いました。それらの条件も重なっている事でしょう。中に舞台を運んだことが大きな特徴ですが、中の舞台と周りの円の舞台とどちらが主でもないように思います。
少しだけ参加したいという方には、ご希望に沿えませんでした。そうした点は普段行っている「間の会」とは異なります。
「間の舞台」は、VOLVOXというその場と、その場に関わる人々の丸ごとをことほぐということが最初からありました。けれど、もっと日常的に、人と人のそれぞれ、様々を、ことほぐ「まつり」を、「間の会」では引き続き行ってゆきます。そのようなことを呼びかけて参ります。それが何故面白いのか、少しずつでも伝えて行きたいと思います。
今後、場合によっては、この「間の舞台」のように、少し違う形式のものもやってみてもよいかと思います。
誰もが参加出来るということが目的ではありません。
それは、常にあまねくあるものの一部で、集合ではなく、すべてが一つ一つ、それぞれにあるものたちであり、そこに連なっていくということ、その本然がまさに「間(あいだ)」である、ということが肝要なことです。
「間(あいだ)」ということにこだわりすぎているように思われるかもしれませんが、「間(あいだ)」は明白に必ずあるもので、しかも、答えではなく、問いだからです。
以上の件、すべてお問い合わせ、ご連絡先は、
● メール:aidanokai2015@gmail.com 間の会 西脇秀典です。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
2022年3月7日 間の会 西脇秀典
以上が、【間の会のお便り】ですが、
少し、追加でおすすめのお知らせをいたします。
以前に、間の会で上映会を行った映画『息の跡』の小森はるか監督の特集放送が、今夜と他何日か、日本映画専門チャンネルで放映されます。
『息の跡』のほか、その後発表された『空に聞く』、『二重のまち/交代地のうたを編む』がTV初放映されます。いずれも大変感銘と衝撃を受け、わたしは何度も映画館に通い繰り返し観ましたが、これらも出来れば上映会が出来るといいなあと長らく思っているものです。ケーブルTVなどで視聴出来る方は、ご覧になってみて、よかったら、一緒に上映会の企画を考えませんか?あるいは、このような作品があることを気に留めていただければと思います。
このドキュメンタリーがすごい!特別編 映像作家・小森はるかのまなざし
(日本映画専門チャンネル)
https://www.nihon-eiga.com/osusume/komoriharuka/
また、この二作は、最近、DVDでも発売されました。関心のある方は、ぜひ、ご覧になってみてください。
『空に聞く』、『二重のまち/交代地のうたを編む』
https://www.kinokuniya.co.jp/c/label/20211215162008.html
写真は「間の舞台」を行った会場のVOLVOXさんの写真です。公演直前の会場の様子は撮影するのを忘れました。
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