◆謹賀新年◆【間の会のお便り】2022年1月7日を掲載します。
皆様、こんにちは。西脇秀典です。
新年のご挨拶も遅れまして、大変失礼致しました。
昨年は、多くの皆さまに大変お世話になりました。誠にありがとうございました。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。
また、本年最初の間の会は、直前ですが、明日の【ご縁の間の会】です。こちらもご案内が遅くなり、誠に申しわけありません。
お便りは1月7日付となっておりますが、この日に一旦書き終え、8日に郵送版を送りました。その後、どうしても、言い足りていないことなどが気になってしまい、多くではないですが、重要な点を加筆、改稿しました。郵送版を手にされた方には申しわけありませんが、今日公開する方をメール版、WEB版として了とします。
新年早々、大変長い文章となっております。
もし、ご興味があれば、お読みいただければ幸いです。
◇【間の会のお便り】2022年1月7日◇
みなさま、新年あけましておめでとうございます。新年のお慶びを申し上げますと共に、寒中お見舞い申し上げます。
大変寒い日が続きます。みなさまが穏やかに健やかに一年をお過ごしになることを祈念申し上げます。
どうぞお身体をお大事になさってください。
寒風の中、どこまでも遠く、すぐそこかのように近く、空が広がります。寂しさと心強さが共にある季節です。
メールで、途中までしか受信出来ないという方がみえましたので、先に1月2月のお知らせを掲載いたします。
一、ご縁の間の会 万松山 専琳寺さまにて
日時:2022年1月12日(水)13:30〜16:30
場所:津市大門 万松山 専琳寺(津観音の東、立町商店街を抜けたところ)
二、歩く間の会 西へ
日時:2022年1月17日(月)15:00頃〜18:00頃
場所:神戸市周辺など(ご同行くださる方を募ります。お問い合わせください。)
三、月々の間の会(1月)
日時:2022年1月23日(日)13:30〜16:30
場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター 2階集会室
四、ご縁の間の会 万松山 専琳寺さまにて
日時:2022年2月9日(水)13:30〜16:30
場所:津市大門 万松山 専琳寺(津観音の東、立町商店街を抜けたところ)
五、月々の間の会(2月)
日時:2022年2月27日(日)13:30〜16:30
場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター 2階集会室
※以下は、間の会主催ではありませんが、関連の催し間の会と共通の方向性のものとして第一報をお知らせします。
◇間の舞台◇
主催:西脇秀典と橋本仁美
日時:2022年2月20日(日)17:00〜(公演時間2時間程)
場所:VOLVOX(三重県津市)
料金:2000円
定員:10名程
公演サイト:https://aidanobutai.amebaownd.com
◆ みなさんにとっては、どのような年明けだったでしょうか?
わたしにとっては、父が初めてお正月ということをほぼ全く認識していないように見える年明けでした。ただ見えるだけかもしれません。また、わたしは、お正月早々、風邪で数日寝込んでおりました。ですので、年末に年賀状は出したものの、通常、メールで年始のご挨拶をしている方に、まだ、ご挨拶出来ておりません。元日の夜に初めて見た夢は、軍隊に新兵として配属される夢でした。こんな夢、見たことないくらい特殊な夢なのに、見たことのないような景色ではありませんでした。特にどう解釈するわけでもなく、そのまま、そういう夢を見たということです。毎年、年が改まるということはどういうことなのか、考えてしまいます。世界中にたくさんの暦があり、この国にも、複数の暦があります。天体の運行を計測したものなどをもとにしているのでしょうが、どれも人為的なものには違いありません。とはいえ、毎日、何らかの暦で生活しています。何年何月何日何曜日何時に、と示し合わせないと、集まることが出来ません。何日が大事な人も、何曜日が大事な人もいるでしょう。日に夜に、太陽や空を眺めたり、月を眺めたりします。それは、実際、ああ明るくなって来た、暗くなって来たとか、そのような、あたりの様子から気配を感じたり、図らずも目に入って来たりするのですが、暦と対照すると、なるほど、これは昨日や1週間前や1ヶ月前とはこのように違うのかと分かったりします。けれども、一年というのは、分かるような、分からないような単位で、暑さ寒さの繰り返しの中で、ああ、何となく、これが一年か、というのは感じないでもないですが、長いような短いような、どうも正確に認識出来るような類の単位ではありません。今年は、年が明けてからも、なかなか、おめでとう、という言葉が出て来ませんでした。しかし、この、出てこない、などというのは、極めて自己都合なことなのかもしれません。実際、親戚の人とか、誰かとあい対した時は、自然と、おめでとうございます、という言葉が出て来ます。誰とも面と向かい合わないと、確かに、おめでとうでも、何でもないのでしょう。一休禅師の歌に「門松は 冥途の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」というのがあると伝えられていますが、お正月が冥土の旅の一里塚であるならば、いや、やはりめでたいのではないかと思わないでもありません。
様々な暦の中で、新暦より旧暦の方がより自然だとか、そのようなことは、わたしが判断するには身の丈を越えていて、分かりません。複数の暦があり、それぞれ、大事にしている人がいれば、それぞれが、それらの暦を大事にしているということの方が大事です。より自然とか、良し悪しの話ではありません。お正月が、慣習とかならわしとか惰性だと言ってしまうことも、わたしには出来ません。年をまたぐとか、年が改まるということには、あまりにも多くの人々の念がこもっていて、それは、わたくしごときのはからいの及ぶところではなく、ゆえに押し潰されそうになったりもいたします。ただ、人々の念と言うと、あまりにも漠然としていますが、わたし自身は、父方の祖父母や、母方の祖父母や、大叔母や、今もありありと、その姿が浮かんでくる人々がおります。そうした人々と共にお正月というものはあります。何故、父方も、母方も、正月は、祖父が、一年の大仕事とばかりに、すき焼きを作ることに何か譲れない真剣さを見せていたのでしょう。これは、もちろん、わたしの景色です。お正月は、誰か他人に強制するようなものでもありませんし、また、一人っきりで内にこもり抱え込むようなものでもありません。しかし、誰かと会うことで、そこに、より、祖父母らの姿もくっきりして来ます。
◆昨年、ご縁の間の会の中で、ご住職に「あの世ってあるんですか?」と問われた方があって、それに対して、ご住職もご自身 の思われることを、丁寧に語ってくださるということがありました。ここで話された「あの世」という言葉は、恐らく、死んだら行くところ、とか、死んだ人がいるところ、行くところ、というようなものと思われるのですが、わたくし自身は、この死んだらどうなるのかということについて、様々な宗教上の知見などは持ち合わせておりません。また、もう少し厳密に言うと、どの時点を持って人は死んだと言えるのかについても、全くよく分かりません。今、亡くなられたという人のからだに触れても、はっきりと亡くなったのかどうか分かりませんでしたし、ご遺体と、亡くなられたその人というのは、また別の存在にも感じられたりします。ただ、亡くなった人が見ている景色は見えません。というか、自分の見ている景色以外に、他の人の見ている景色は見えません。あくまでも、その人の言葉や仕草や瞳の輝きやそれらの、その人の発しているものから、その人の見ている景色は浮かんでくるにすぎません。亡くなった人が景色を見ているのかどうかを確認することが出来ません。亡くなった人は、黙しています。声は聞こえて来ますが、その人自身が何かを発してくるわけではありません。こちらから触れに行くことは出来ません。完全に思われる存在となります。存在という言葉の定義に混乱する方があれば、思われる者となると言うのでしょうか。完全なる受動と言っていいのかもしれません。少なくとも、そちらからは何も働きかけません。完全に思われる者には、完全に思われる者の世界があるのではないでしょうか。そこにいるのです。そこというのは、具体的に示すことは出来ない、そこです。「亡くなった人」が「いる」、そこのことです。亡くなった人に、触れたり、会ったりすることは出来ませんが、かと言って、そこにいないのかと言えば、いないとは言い切れないものがあります。声も聞こえます。まなざしも感じます。そこ、とはどこなのか。わたしの中なのか、あるいは、この世界の隅々にあまねくいるのでしょうか。これを、この事態を、言い表す言葉がありません。思い出、などという言葉は、あまりにも不確かで、自己中心的に思えます。また、過去のことですらありません。この全く確実な事実を、主観とか思い込みとか錯覚と言うべきでしょうか。わたしは、生きて共にある人とばかり一緒にいるわけではありません。亡くなった人とも共にいます。それは、唯心論であって、唯物論ではそうは考えないのだよと仰られるかもしれません。もちろん、そう信じる人を否定はしません。わたしには物質とは何なのかが、ただ分からないだけなのです。物質と、「もの」や「こと」は、また、別の概念でしょうか?と言うより、概念とは何でしょうか?概念より先に物質が存在することを、どのようにして明らかにするのでしょうか?物質の存在についての、多くの積み重ねられて来た科学的知見は、無数の人々や社会によって、数値や数式や概念によって表されてはいるのでしょうけれど、それ自体人間が行なって来た約束事に過ぎず、お正月と、どちらがより実体があるのか、わたしには分かり得ないことです。もちろん、たくさんの約束事に乗っかって考えたり、理解することが不可能なわけではありませんが、何にも乗っからずに、ただ、単純な事実ということを見ることは出来ないのでしょうか。物質があるのだという考え方をして来た歴史があるということは、ある事実でしょう。心というのも、いわば概念であり、大変不確かなものです。ですので、抽象化された心ということを土台にすることは出来ません。心というのは、多くの場合、「わたし」に属しているものだと考えられがちで、その延長では、全く不確かなものとしか言いえません。心が間のことであれば、少し様相が異なってきます。しかし、わたしが見ている景色と、誰か他の人が見ている景色は違う、ということは、かなり厳粛な事実ではありませんか?そして、今見ている景色を、もう、今、伝えてくれることがなくなった人というのが、亡くなった人々ではあります。ですから、こちら側とあちら側というのも、やはりあるでしょう。ただ、わたしたちも、完全にではありませんが、やはり思われる、まなざされる存在でもあるわけで、これは自分のはからいや思い通りに振る舞えると過信していては分からなくなって行くことです。完全に思われる存在というのは、わたしたちの側からは分かり得ないので、そういうわたしたち本位の言い方で、一見わたしたちが思っているかのように勘違いしてしまいますが、元々、わたしたちが思っているということ自体が、過信と思い上がりのゆえであって、実は、そういうわたしたちの方が、すでに思われているとも言えないでしょうか。つまり、元々、思われているわたしたち、という存在があるのは、完全に思われている存在である亡くなった方たちがいるからだ、とも言えます。わたしたちが、みずからの思い、はからいで、ここにいるなどということがあるわけがありません。それは、互いに見ている景色が違うもの同士があい対することで、わたしが、あるいは、わたしたちが、みずからいるのではないということの厳粛さに直面し、このあまりにも無力なわたしという事実がやって来てこそ、心底みなぎっていきてゆくことが出来るのです。過去も未来もなく、ただ、未知なる道のりが続いているだけです。これは、こことそこの話です。
あまねく光だけがあれば、光があることは分かりません。光に照らされているものは、照らされなければ、あることが分からないし、その照らされているものが、反射し照らし返さなければ、光があることすら分かりません。また、この世は、常に何らかの音に溢れていて、完全な静寂などというものは人工的に作り出さなければありませんが、いかに音に溢れていても、それに共振して聞くもの、響くものがなければ、音が鳴っていることすら分かりようがありません。光や音ですらそうなのです。あるものは、ただ、あるものだけでは、あることが分からないのです。ここまでは、言ってもよいのではないかと思います。
何故、わたくしは、新年早々、こんなことを書いているのでしょう。
◆ 11月の間の会のお便りに「間に居続ける」ということを書いたくだりがありました。そのことについて、お便りをFacebookに転載した際に、以下の文章を付け加えています。
『今、思うのは、「間に居続ける」と言うのは、全力で自分自身であり続けながら、相手の影響を受け続ける(相手というのは、人であれ、物であれ、何であれ)、というようなことではないのかなというようなことです。』
この、「全力で自分自身であり続けながら、相手の影響を受け続ける」のに、最も欠かせないことが、事実の精査ではないかと思われます。非情に、情け容赦なく、事実を精査する必要があります。そして、事実の精査に欠かせないのは正に目の前の相手であり、夢や希望や思想は、必要ありません。あっても二の次、三の次です。多くの場合、こうありたい、こうあって欲しいという方向に、人は流れがちです。こうありたい、こうあって欲しいというのは、確かに人情としてはあるのでしょうが、それによって、事実を見ないようにする、なきものにすると、確かに、いるものまで消して行こうとするような働きを生みます。間に居続けるとは、あるものを絶対になきものにはしない非人情の在り方であり、事実こそが希望の正体です。仲間がいないと信じられないようなことは全て疑ってしかるべきです。異論をお待ちしております。
居る、というのは、近年、益々よく語られるようになった事柄ですが、「居る」という厳粛な事実を無視して、あるいは、あたかも、「居る」という事実より大事なことであるかのように、「居ていい」「居てもいい」「居られる」などということが語られたりします。「居ていい」「居てもいい」などと言われ続けて、そこに居ることは、まるで、「居る」という事実を人に明け渡してしまわないといけないようなことです。あるいは、「居ていい」「居てもいい」ということは、「居てはいけない」ということとセットで、表裏一体です。肯定は否定。「居られる」という言葉にも不穏なたくらみが、罠が、潜んでいないでしょうか?
◆ 昨年最後の間の会は、参加者は、わたし一人でした。こんなことをしていていいのだろうか。このやり方にこだわっているのはわたしの我執なのか。これでいいのか、よくないのか。誰か来るだろうか、来ないだろうか。来年はこれをこのまま続けるのだろうか。果てしなく、自問は続き、しかし、それでも、世界は光と音に溢れ、豊かでした。しかし、わたしは、何かの修行のために、ただ一人座っているわけではありません。多くの人に、とは思いませんが、皆さんに来て欲しいから、こうして、わたしの言えるギリギリのことを、皆さんにお伝えしています。そうして、ただ、そこにその時間共に居るという、ただ、そのことだけを行いたいから、わたしは、そこにおります。そのようなことに関心のある方に呼びかけております。そこに何の目的もありません。ただ、厳粛な事実を前に、一人の無力な自分がいるということが、いかに面白く、そして、いかに腹の底からみなぎってくるものか、ということを、皆さんに呼びかけているのです。最初の方に、父が「お正月ということをほぼ全く認識していない」と書きましたが、それが事実かもしれないし、あるいは、そうわたしには見えるということが事実かもしれません。けれど、お正月を認識していないということに、父の自然体を見、お正月に押し潰されそうになるということに、わたしの自然体があります。どちらも、そのまま、その通りです。
◆ 1月17日の「歩く間の会 西へ」は、昨年行ったことから、もう少し、より分からない方へ向かいたくなりました。諸状況により変更もあり得ますが、気になる方は、どうぞお問い合わせください。
以上の件、すべてお問い合わせ、ご連絡先は、
● メール:aidanokai2015@gmail.com 間の会 西脇秀典です。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
2022年1月7日 間の会 西脇秀典
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