【間の会のお便り】2021年11月13日を掲載いたします。

【間の会のお便り】2021年11月13日を掲載いたします。

11月と12月に行う、全部で6回分の間の会のご案内です。

直近のものは、今週11月17日水曜日の【ご縁の間の会】です。

11月も12月も、専琳寺さんで開催させていただくことになりました。

お便りは、長い割に、どうもまだ言葉足らずなところもあるような気もします。

時間をかけて、もっと言葉にして行きたい感じもあります。


【間の会のお便り】2021年11月13日

みなさま、こんにちは。朝夕と冷え込む日も増えて来ましたが、吸い込まれるような青空や、身に滲んでくるような夕映えに、清々しい、心洗われる思いがいたします。11月、12月とたくさん間の会を開きますが、先ずは、日程順に一覧をお知らせいたします。


一、ご縁の間の会 万松山 専琳寺さまにて

  日時:2021年11月17日(水)13:30〜16:30

  場所:津市大門 万松山 専琳寺(津観音の東、立町商店街を抜けたところ)


二、月々の間の会(11月)

  日時:2021年11月28日(日)13:30〜16:30

  場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター 2階集会室


三、問いと共に座る間の会・問ひの間(といのま)「自分自身にとって戦争とは何ですか?」

  日時:2021年12月8日(水)13:30〜17:30

  場所:アスト津3階 みえ市民活動ボランティアセンター交流スペース テーブル7


四、ご縁の間の会 万松山 専琳寺さまにて

  日時:2021年12月15日(水)13:30〜16:30

  場所:津市大門 万松山 専琳寺(津観音の東、立町商店街を抜けたところ)


五、一陽来復 間の会 冬至の祭り なつかれくさしょうず 舞や踊りのようなものを奉ずべし

  日時:2021年12月22日(水)14:00頃~17:00頃

  場所:津市役所北、お城西公園(天候により東屋だけでなく、外の広場にも出てみます。)

 

六、月々の間の会(12月)

  日時:2021年12月26日(日)13:30〜16:30

  場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター 2階集会室



◆ 9月も10月も、いずれの会も、充実した、かけがえのないひとときでした。お越しくださった皆さま、ご関心を寄せてくださった皆さま、誠にありがとうございました。

そして、ここに、11月と12月のお知らせが出来ることを心より嬉しく思います。

9月の月々の間の会で、雨模様の中、お城西公園の東屋の同じ屋根の下で、若い人たちがダンスの練習をしているのを横目に見ながら、集団で同じ動きに合わせて行こうとすることと、このからだの思うままにならない様とについて語らいながら逍遥している時、「こういうものがアゴラだったんだね。」と言う言葉に、歴史は、時間は、時を忘れ、ただそこにありました。

10月の月々の間の会では、久々の贄崎での開催で、気持ちのいい澄み切った空を見ながら、「あの木も、『木』と言う名前がなかったら、世界の全体から『木』として切り離されることはなかった。」との語りが生まれて来ました。

アゴラを想起するのは、単なる知識でしょうか?

木の名によって、世界から木が生ずる。名の以前に、木はなかった。というようなことは、単に哲学的思考、あるいは、禅問答のようなことでしょうか?

そうかもしれません。それは単に頭の働きだったのかもしれません。が、その時、世界とわれわれはただ存在し、その場所そのものが時間だった、そのようなことが起こっていたかもしれません。

◆ 10月に2回目の開催となった【ご縁の間の会】は、ご住職が境内の大銀杏から落ちた銀杏の実を丁寧に洗って乾かして、参加者皆にくださいました。大きな銀杏の樹に抱かれて、柔らかな木漏れ日の影が揺らめく本堂で、畳の上に座れることのありがたみを感じました。

この会では、大阪から、全国を旅しながら座っておられる有無の一坐(✳︎注)の皆さんが出稽古として参加してくださいました。それも珍しいことでしたが、初めての参加者もあり、これまででも特に多い人数の集まりで、話も熱を帯び、多岐に渡りました。

坐禅に通ってみえるという方と、他力の道を行かれているご住職との呼応。リベラルな政治への強い思いから、今の時代に居場所のなさと、思いの語れなさを感じている方と、思想的には極右だと自認される方が、互いに、今の世の中で端っこに生きているのだという言葉が、勢い、熱量を帯びて出てくると、話は天皇や皇室、憲法のあり方、天皇についての話から、別の方から、なかなか言葉にすることがなかったけれど、聖と賎と言うことに触れてくるのではないかと、吐露される、その言葉の奥行きに、引き込まれました。

議論や討論、会議の場ではあらわれない、その人なりの実のある音調を持った言葉が語られていました。誰かが退場すると、ふと別の方が訪れる、その有り様も、まるでト書きがあるかのようでした。

わたしは、何の知識も知恵もない、無知の徒で、気の利いたことを言えるわけでも、話を整理出来るわけでもありません。ただただ、それらを聞き届け、見届けることしか出来ません。しかし、それは言いっ放し、聞きっ放しではありません。そこにあらわれる言葉(それは言葉ならぬ言葉かもしれません)を聞き届け、あらわれる様を見届けるということは、自分自身に起こってくることもなきものにすることは出来ません。聞き届け、見届けるということは、居心地の悪さや違和感も無視せず、間に居続けることです。自身の音調を損なわずに言葉を発する、あるいは何かがあらわれるということにおいて、沈黙や静寂のおとずれは恩寵でもあります。やって来るまで、あらわれてくるまで、何も、ことをせいて話すことはないし、それを求める必要もないでしょう。

専琳寺ご住職の中井さんからは、ぜひ続けてやってくださいとのお言葉を賜りました。

それで、ありがたいことに、11月も12月も開催の運びとなりました。中井さんは、なんでもかんでもやってくださいと仰られるような方ではないと、その静けさを伴った、優しく思慮深い語り口から感じさせられます。そのよう方から開催を促していただけることは、本当に光栄なことです。

とは言え、堅苦しい場ではありません。思うがままに居てくださったらよいと思います。

その日、その時、集まった人で、その時空は成り立っていくのです。

人を沢山集めたいわけでもありません。

この時、初めて参加された方からは、怪しい会ではないか、とか、参加費の設定がないことから、逆に壺でも売りつけられるのではないかと、来るまでがハードルが高かったとの発言がありました。

怪しいかどうかは、怪しくありませんと言ったところで余計に怪しくなるばかりで、何も言うことはありませんが、参加費については、少し申し上げますと、今ところ、有料の施設を使うことが稀なので(実は、まん中広場は少額とは言え、有料なのですが)、参加費を決めていないと言うこともありますが、当然、この会の活動を継続して行くのに運営の費用はかかっています。会場には簡単な貯金箱のようなものを置いていますが、活動協力金のような形で、少しでも金銭的なご協力をいただけるとありがたいです。こちらから金額を設定して、それに対して参加したいと思う方に来ていただくという形も考えることはありますが、ただ集まるという、世の中の仕組みや常識からすると少し分かりにくいことをやっております。ここへ来ればこういう体験が得られると、先に期待して来られても、少々違うような気もします。来てよかった、あるいは、こういう場を続けて行って欲しいと思うものがあれば、金銭的にもご協力いただければありがたいです。また、試みとしては有料の催しもするかもしれませんが、今は、どなたでも、そして、何の目的も持たず、ただ集まるということをして行くに当たって、この形態が、より違和感が少ないと考えています。

◆ このような、ただ集まるという活動をしていると、金銭的な意味においては、諸経費など出て行くばかりです。とは言え、これは、一種の道であり、行であり、人生でもあり、行為、振る舞いや存在の全てを投入しています。あるいは、為しごととしての「仕事」と言ってもいいかもしれません。しかし、それでは生活していけませんので、このところ、日雇いで工事現場などに時々働きに行っています。これはこの活動が、だいたい暦(複数の)によって日取りを決めていたり、この道を行くのに、様々な制約を受けることを避けながら生活をしていくのに、そういう形態で働くのがよいかもしれないと思ったこともありますが、間の会の活動は、人と会うということが全てと言ってよく、どういう人と会うのかというと、別に仲良しでも、友だちでも、気の合う仲間でもなく、ただ、ご縁のある人とどなたでもと思うわけですが、ご縁というのは、もちろん意のままになろうはずもありません。どのような人がやってくるか、あるいは去って行くか、分かりようがありません。向こうから来る場合も、こちらから行く場合もあります。

しかし、このようにお便りを出して、それを読んで来てくださる方と集まり、お会いするということだけが間の会ではないのではと思う部分もあります。こうした形で呼びかけて出会える人は限られています。うまく伝えにくいですが、こうした方法では会えない、普段は出会えない人にも、もっと会いたい感じもあって、工事現場に働きに行って、そのような人たちと一緒に働いているようにも思います。そこには、こうしたしつらえた場ではなく、業界の構造などもあるでしょうけれど、かなりむき出しに近い「間」もあるのです。

間の会は異界でもあり、日常と地続きでもあり、それらの境界にあります。

そんなことを最近していることもあって、実は、11月23日の勤労感謝の日に、「自分自身にとって『仕事』とは何ですか?」という【問ひの間】をやりたいなと思っていました。けれど、工事現場でクタクタになって帰ってくると、どうも、どうスケジュールを立てたらいいか迷いが生じて来て、少し保留にしていたら、あてにしていた会場が埋まってしまいました。気になる問いでもあるので、またよい機がありましたら、開催するかもしれません。

◆ 緊急事態措置によって延期になっていた【問ひの間(といのま)「自分自身にとって戦争とは何ですか?」】を、12月8日(水)に開催することにしました。元々、8月に行う予定でありながら、どこか、天皇が終戦を宣言した日に開催するのは違和感があると思っていました。それが、真珠湾攻撃の日にやるのはどうなのかというご意見もあろうかと思いますが、12月に、自分自身のこととしてこの問いと共に座るのには、比較的相応しい日かと思いました。日曜日の開催を期待されていた人には申しわけありません。今年の9月はニューヨーク同時多発テロ事件から20年でしたけれど、その後、アメリカ合衆国が発動した「対テロ戦争」とか「テロとの戦い」というものが、実際何なのか、長年考察していてもなかなか見えて来ません。なんらかの作戦名のように思えますが、実際には正式な名称ではなかったとのことです。わたしが長年、このことにとらわれて来たのは、「対テロ戦争」と「テロとの戦い」という言葉では全く印象が異なる感じが拭えないからでした。どちらも同じ「War on Terrorism 」あるいは「War on Terror」という英語の日本語訳なのに、あえて文脈によって使い分けられていることに非常に強い違和感を覚えていました。同じ文章の中で、使い分けられていることすらあります。実際のところ、「戦争」と「戦い」というのは、どのようなことなのでしょうか。違うことでしょうか。あるいは、「争い」とは。スポーツなどの話で、「自分との戦い」などという言葉もよく使われると思います。語源がどうであるのかは諸説あって分かりません。自分自身にとってはどうなのか、この問いと共に座って、探ってみませんか?

◆ 今年も冬至の日に間の会を行います。昨年はベートーヴェンの第九交響曲とひとりまひをどりということを行いました。今年はそうした特定の曲を置くかどうかは分かりません。ただ、舞や踊りのようなものを置いてみたいと思っています。何故、単に、「舞」や「踊り」としないで、「舞や踊りのようなもの」と表記しているのかといいますと、それは、一般的な意味(あるいは近代的な意味なのかもしれませんが)における「舞」や「踊り」のように、「わたし」なり、誰か特定の人が主体的に「舞う」とか「踊る」とかいうことと、どうも違うことを行なっているように思うからです。実際にそのようなことはしていません。「舞う」とか「踊る」というのは後からついてくるような事象ではないかと思います。ですから実際にそれらが起こる以前から「舞います」とか「踊ります」とかは言えない感じがあります。企図自体、わたしから発していると言えるのかどうか。この現象について、まだ命名することが出来ません。場そのものの遊びとも言えるし、間化(あいだか)しているとも言えなくもありません。わたしが「場を踊る」のではなく、どちらかと言えば、場に動かされ、運ばれています。より違和感の少ない名称を探り続けてはおります。寒い時期ですが、ぜひ、ご一緒しましょう。今年は特に縁が深かったお城西公園にしました。

以上の件、すべてお問い合わせ、ご連絡先は、

● メール:aidanokai2015@gmail.com  間の会 西脇秀典です。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

2021年11月13日   間の会  西脇秀典


✳︎注:有無の一坐については、こちらの有無の一坐のサイトをご覧になってください。

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