【間の会のお便り】2021年5月19日を掲載します。

こんばんは。西脇秀典です。

3月以来久しぶりに【間の会のお便り】を掲載いたします。

【お便り】の後半の方で父のことに触れているのですが、今朝、父は、母と、母の太極拳教室に郊外へ出掛けて、出先で急に傘を振り回して暴れ出し、車に乗ることも拒否して、いつも足取りもフラフラなのに、長距離を歩き始め、母も車を置いて一緒に帰ってくるという一件がありました。無事に帰ってくるまでかなりヒヤヒヤしましたが、無事帰って来れてよかったです。日々様子が変わっているのはその通りですが、昨日、郵送版は既に送っている【お便り】に書いた現状認識はどうだろうか?と思い直したりもしましたが、やはりそのままでよいかと思います。

今回は(も?)、とても長いです。また、いつもより改行も少なめです。ご興味があれば、お読みいただければ幸いです。少し踏み込み過ぎた感じや言葉足らずかもと思う面もありますが、多分、そのギリギリのところを言葉にしています。(郵送版、メール版と僅かに異なる箇所があります。)

また、このWeb版では、【お便り】の後に、間の会とは直接関係ありませんが、わたしが、現在、京都で参加している、見えない人と見える人が作るアートプロジェクト『クサワケテ ユケ! ワタシ・ヒョウゲン』(動きをめぐる研究会)について、リンクをご紹介しておきます。月一のワークショップと7月には公開のワークショプと試演会を予定しています。多くの人を募っているわけではありませんが、とても面白い感じになっているので、こちらもご興味のある方は参照してみてください。

また、近いところでは、今度の日曜日が【月々の間の会】です。

では、以下に、【お便り】を掲載いたします。


【間の会のお便り】2021年5月19日


みなさま、こんにちは。いかがお過ごしですか?

今年はこんなに早く梅雨入りしてしまって驚いております。

お便りとしては3月初旬以来の久しぶりになります。全体としてはかなり長くなりました。


一、月々の間の会(5月)

  日時:2021年5月23日(日)13:30〜16:30

  場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター 2階集会室


二、ご縁の間の会 万松山 専琳寺さまにて(宗教行事ではありません)

  日時:2021年6月16日(水)13:30〜16:30

  場所:津市大門 万松山 専琳寺(津観音の東、立町商店街を抜けたところ)


三、間の会 夏至の祭り 舞や踊りのようなものを奉ずべし

  日時:2021年6月21日(月)日没前後(予定)

  場所:未定(津市内の公園、河原、海岸などを予定。お問い合わせください)


四、月々の間の会(6月)

  日時:2021年6月27日(日)13:30〜16:30

  場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター 2階集会室


五、其々の間の会

  間の会の他の日程に都合が合わない方にご案内いたします。

  事前にご相談して決めた場所、日時に所定の時間を区切って行います。

  基本は対面になりますが、場合によっては電話やオンラインアプリでも行います。

  お問い合わせください。お一人でも複数でのお申し込みも承ります。


◆ まずは、皆さまはどのようにお過ごしでしょうか。わたしは、直に人に会う機会が、どうしてかなり減っています。正直なところ、新型コロナの変異株ウィルスに関する報道などには戸惑う部分も多く、実際に人と会う時、どのような対策を取ればいいのかも、まだよく分かりません。人に染さないということは大事なことだと思っています。とは言え、間の会は、人と会う、集うということをやっています。これはわたしにとっては、明らかに仕事です。出来る限り工夫はしても、やめることは出来ません。

キリスト教の宗教改革者マルティン・ルターの言葉ではないかと言われている、「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの木を植える」という言葉があります。世界が滅びるというのは、少し飛躍した実感に乏しい比喩かもしれませんが、とは言え、わたしは、もし世界が明日滅びるのだと知ったら、今日、間の会に座るでしょう。そして、踊り、舞うかもしれません。あるいは、座っているだけで十分かもしれません。ともあれ、集うことを呼びかけます。

いつも使っている贄崎の会場を、昨年の春過ぎからは、始まる前に毎回雑巾掛けをしているのですが、この時間もなかなか楽しいものです。会を呼びかける者として、出来る限りのことはやりますが、実際これまでよりリスクが高くなっているのかもしれません。しかし、集うという営みは、人類最後の日までやり続けるものだと覚悟しております。

今は、同居の人とそれ以外、という区別が社会的にはなされようとしていますが、間の会に集うということは、社交の場でも、なかよしの集まりでも、気の合う仲間の場でも、会議でもありません。ある意味、集うというのは業のようなもので、友人、親族、同僚などの区別なく、ひととき同居の者として、因縁深き者同士が集うものと心得ていただければと思います。そこには、敵も味方もいるかもしれません。憎い者との因縁ということも考えてもよいかもしれません。もちろん、御身一つでお越しいただければよいのですが、しかし、身一つというのは、実は、多くの他の人の存在や面影をも含んでいます。亡くなった方々もご一緒だと思います。身一つというのは、個人とは別のことです。プライバシーとか権利とか、そういうものとは随分遠いものではないかと思います。個人と違って、身一つは守ってくれる思想や概念などありません。逆に個人は、その時々の社会通念にどうしても規定されてしまいます。その場に身を投じるというのはどういうことか。それをわきまえていただければと思います。

最近、「わきまえる」という言葉がひどく嫌われるようになりました。しかし、それは、あまりに個人主義や、近代の社会の在り方から見た観点ではないでしょうか。「わきまえる」というのは、単に、部屋に上がる時に靴を脱ぐとか、大事なものに背を向けないとか、多くの人が大切にしているものに一礼をするとか、そのようなことでしょう。境界線を感じる感覚です。また、自分には言い得ないようなことは言わないとか、人の言葉を奪わないとか、人を集団として見ない、ということも、わきまえの大切な働きです。過剰に立場を意識するとか、空気を読む必要は全くありませんけれど、立場や役割などが一切不要である間の会においては、立場や役割に応じるわけではない別のわきまえがあるのだろうと思います。社会においてどうか、などということは、この際、脱ぎ捨てていただき、目の前のものと対峙していただきたいと思います。この「わきまえ」という言葉への世の中での激しい嫌悪の声に引っかかるものがあって、昔、友人から紹介されていた井出祥子さんという方の『わきまえの語用論』という本を読んでいたのですが、そこには、「当時(江戸時代)の儒教学者の一人、荻生徂徠が中心となって社会のあり方、人々の生き方として生み出したものがわきまえという考えである。」と書かれているのですが、果たしてそうなのか、少々疑問です。思想としてまとめられたのは、その時代かもしれませんが、それ以前から、この言葉の働きはあったのではないかと思います。わたしは、思想としてどうか、吟味する力を持ちません。しかし、わきまえという言葉が身についている限り、その働きからは逃れられないように思います。

今、ここに書いているようなことは、言葉の定義や論理のことではなく、お送りする皆さん一人一人に対して言葉になることを辿っているだけです。

◆ 少々、前段が長くなりましたが、今回、何よりお知らせしたいのは、この度6月に、津市のかつて栄えた繁華街であった観音さんや立町商店街、大門大通り商店街の裏手にある浄土真宗本願寺派の専琳寺さんというお寺で、間の会を開催させていただける運びとなりました、ということです。このお寺は、わたしの実家の菩提寺でもあるのですが、わたしが、もうかれこれ10年以上前、病気で東京から津の実家に移ってきて、どこにも出るあてのない時に、当時は、今のご住職の先先代のご住職も、お体や身の回りのことを不自由にされていて、少しお寺の建物が荒れていた時期でもあり、後の先代ご住職のはからいで、お寺の掃除のお手伝いをさせていただいておりました。週一回でしたが、お寺の本堂や境内を掃き、雑巾掛けをさせていただいた頃のことは、今も鮮明にあります。間も無く、先先代のご住職が亡くなられ、先代のご住職には心細い時期にかわいがっていただきました。そして、昨年、その先代のご住職も亡くなられました。このお寺は、四日市の山奥から津に出てきた、わたしの祖父が祖母の供養のためにご縁をいただいたお寺ではありますが、小さなお寺で、構えも質素なものの、先代も、今のご住職も、親子間の世襲ではなく、ご親戚に当たる方が、志して跡を継がれており、そのお寺の佇まいも、そこに確かにある人の手の入った肌触りも、わたしには親しみ深く、惹かれるものがありました。

今年の3月に、目指すものは厳密には違う面もあるかもしれませんが、間の会と同じように、集まって、座する活動を、各地を回ってされている大阪の「有無の一坐」の皆さんが、津に出稽古に来られました。その際、これまで間の会に何度か来られている縁の深い方数名に声をかけて、贄崎でも合同の稽古の座を設けましたが、その前に、団子や餅を買いに専琳寺さんの近くを訪れ、専琳寺さんにもご挨拶に立ち寄りましたところ、ご住職に温かく迎えていただきました。それがご縁で、4月にまたお話をしに一人で参りました。三時間くらい話し込んだでしょうか。ご住職は、お寺はご門徒さんと地域のもので、自分は守っているだけであること、なんらかの芸能の場や、井戸端会議のようなものが出来るといい、そういう、人がふらっと立ち寄る場所であって欲しい、と、また、お浄土とは何なのか、亡くなった人はどこにいるのか、生きている人は、生きている間、亡くなった人とともにあるのではないだろうか、そんなことを、色々な世代の地域の人と話したり考えたりしていきたい、と、そのままではありませんが、そのようなことを話してくださいました。そのお言葉を聞いて、ぜひ、こちらで間の会をやらせていただけないかと申し上げ、試験的に開催することをご快諾いただきました。

ご住職の言葉に、わたしも、まさにお寺はそういう場所であったらいいなと思いました。間の会は、そのきっかけの一つになれればというだけです。もちろん、ご承知のように、間の会は、特定の宗教の教義や組織に基づいてはいません。しかし、ご縁によって動いています。浄土真宗の教えは、わたしは、お寺を使わせていただく以上、最低限のわきまえと礼を持って接すべきものと思いますが、それによって、間の会の活動や、そこでの振る舞いが縛られるものだとは必ずしも思いません。お寺の存在や、ご住職のお考えは、そんなことより、もっと懐の深いものと受け止めました。

お寺が嫌いとか、仏教ないしは浄土真宗が嫌いという方もおいでかと思いますが、6月16日の「ご縁の間の会」は、このようないきさつでお寺にて行うことになりました。無宗教の方も、他宗教の方も大歓迎です。ぜひとも、ふるってお運びください。

専琳寺さんは、立町商店街を東に抜け切った所の、お焼屋さんと玉吉さんと言う二軒のお餅屋さんの道を挟んだ向かいにあります。観音さんを抜けて来られる場合は、津観音の東側の公園を抜けて、向かいの交番の裏です。バス停で言うと、京口立町と言うバス停から徒歩五分くらいだと思います。三重会館方面から、大門大通り商店街を通って来ることも出来ます。贄崎のセンターと違って、階段を上がる必要がありますし、バリアフリーのトイレもありませんが、アクセスについて気になる方はご相談ください。

◆ 昨年は行えなかったのですが、今年は夏至の日に、舞や踊りのようなものを奉じたいと思います。仔細未定ですが、これも間の会として呼びかけたいと思います。お問い合わせください。

◆ 最近は、日々、刻々と変わっていく(ように思える)父の様子に戸惑います。4月から週一回デイサービスに行ってもらっていますが、果たして、それは父の望むことなのか分かりません。わたしは、出来れば、父に間の会に来て欲しいなとも思っています。しかし、みずから行ってみたいということもないでしょうし、それも分かりません。父の話す言葉は、どんどん意味が分からないことが多くなって来ていますが、しかし、言葉を聞くとか、言葉のやり取りというのは、意味のやり取りではなく、意味を聞いているわけでもありません。元々、人前で話をすることの少なかった父ですが、最近は突然大量に話をしたりします。時々、父の話を長時間聞くことがありますが、取り乱していたような状態で話し始めても、最後には、お互いに「これからもどうぞよろしくお願いいたします。」と最敬礼をして握手をいたします。意味が分かるとかいう以前に、大切なかけがえのない時間です。人と対峙するということは、意味を理解するとかそういうこととはまた違うことだろうと思います。この互いに最敬礼して握手する時、普段の生活や今までの人生で知っていると思っていた父と、改めて初めてしっかり出会えた感触があります。なので、意味の分からない言葉を話す人でも、言葉を話さない人でも、間の会に来て欲しいと思います。もちろん、父だから来て欲しいと思う面もあるでしょうけれど、大事な人に来て欲しいということ、それは公私混同でよいと思います。福祉施設などは、公平・公正を建前にするのでしょうけれど、そういう必要はありません。会いたい人に会う、来て欲しい人に来てもらうのでよいのだろうと思います。

最近、余裕のない社会で、文化・芸術と娯楽・遊興を分けようという動きや、医療、福祉はエッセンシャルという考えが蔓延していますが、果たして、そうでしょうか。古来、人は集って来ました。神楽、舞楽、盆踊り、祭、歌垣、茶の湯、賭場などもそうでしょう。寄り合い、講、座、どれも欠かせないものだったはずです。高尚、高踏なものである必要もなく、時に数寄や下賤、いかがわしいものと見なされても、生きることは畢竟、遊び、集い、仕合うことです。改めて、エッセンシャル、必須などと言う必要もなく、それは社会がそうしたいだけです。どうぞ遊んで行ってください。

以上の件、すべてお問い合わせ、ご連絡先は、

●メール:aidanokai2015☆gmail.com (☆を@に変えてください。) 間の会 西脇秀典です。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

2021年5月19日   間の会  西脇秀典

◆ 2021年5月22日追記

もしかしたら、気になる方もおられるかと思い、少しだけ追記したいと思います。

「身一つというのは、個人とは別のことです。プライバシーとか権利とか、そういうものとは随分遠いものではないかと思います。個人と違って、身一つは守ってくれる思想や概念などありません。」と書きました。

同じく、

「身一つというのは、実は、多くの他の人の存在や面影をも含んでいます。」とも書きました。

例えば、普段、介助者、付き添い、ヘルパー、通訳者などと生活されている方は、どうぞ普段通りご一緒にお越しください。お手伝いが必要な場合、手伝います。

個人と違って、身一つというのは、ある意味では、非常にはっきりとした手応えのあるものでありながら、とても曖昧なものです。誰しも一人で生きているわけではないので、そういう曖昧な部分を含んでいます。そして、ひとしく身一つである限り、平等という概念も必要ありません。世界をそのように見ることも可能ではないかと思います。

また、「わきまえる」ことが出来ないと感じられる方もいらっしゃるかと思います。それは、人それぞれです。この線が「わきまえ」だと決めることは誰にも出来ません。互いに身一つで対峙した際に、そこには、なんらかの「わきまえ」があるでしょう。一人では分からない何かが。


追記は以上です。


以下、ご紹介です。

見えない人と見える人が作るアートプロジェクト 『クサワケテ ユケ! ワタシ・ヒョウゲン』(動きをめぐる研究)についての紹介。

https://note.com/ugokimeguru/n/n7c205092e6d4

西脇が一部担当した、4月の月イチワークショップの参加者、担当者のレポート一覧です。

https://note.com/ugokimeguru/m/m03dbd9ecd3c0

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