【間の会のお便り】
2021年3月9日を掲載します。

【間の会のお便り】2021年3月9日

みなさま、こんちは。いかがお過ごしですか?

少し春の気配がいたします。

3月はたくさんご案内があるのですが、ご案内が遅れまして、心苦しく思います。

郵送でのご案内は特に、一、には間に合わず、申しわけありません。


一、2021年3月11日を共に過ごす 

  日時:2021年3月11日(木)10:30〜16:30 (昼食は各自お持ちください)

  場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター 2階集会室、他、なぎさまち海岸など

二、春のお彼岸 春暁 歩く間の会

  日時:2021年3月21日(木)早朝 5:00〜8:00

  集合場所:津市市役所北、お城西公園の時計台の下(雨天も開催)

三、春のお彼岸 間の会 すずめはじめてすくう

  日時:2021年3月21日(日)15:30〜18:30 

  場所:津市まん中広場、(雨天時)→お城西公園の東屋

四、月々の間の会(3月)

  日時:2021年3月28日(日)13:30〜16:30

  場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター 2階集会室

五、月々の間の会(4月)

  日時:2021年4月25日(日)13:30〜16:30

  場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター 2階集会室

六、其々の間の会

  間の会の他の日程に都合が合わない方にご案内いたします。

  事前にご相談して決めた場所、日時に所定の時間を区切って主に一対一で行います。

  基本は対面になりますが、場合によっては電話やオンラインアプリでも行います。

  お問い合わせください。複数でのお申し込みも承ります。 


◆ 今回のお便りを書くにあたって、何週間も一文字も書けない状態が続きました。何か、言葉を置くことが、一言一言血を吐くような思いです。いくつかの引き裂かれるようなものがあります。


◆ 今月の間の会について、先にご案内しておきますと、まず、一、の今年で3回目となります、3月11日を共に過ごす会ですが、今年は、午前午後と通しで行います。お昼ご飯は、各自持参いただくか、会場から歩いて少しあるところにコンビニやスーパー、喫茶店などもございます。それぞれのご都合でお願いいたします。また、流れは決まっておりませんが、途中で海岸を歩くなど、場所を変えて行う流れになる場合があります。途中参加も可能ですが、途中参加の方はお電話などでお問い合わせください。

また、二、三、の春のお彼岸の会ですが、同じ日ですが、それぞれ別の会になります。二、は早朝になりますし、三、も野外になります。春分の日の翌日ですが、この頃が冷えることは、例年よくあることです。寒さ対策は、各自よろしくお願いいたします。


◆ 何故、言葉を置くことが、一言一言血を吐くような思いなのか、分かりません。多分、論理的

に説明出来ることではないでしょう。生きていくこと全てに関わることなのだろうと思います。

今回は、痛みを伴う記述があります。ご了承ください。

1月17日に、歩く間の会を行いました。5時46分に黙祷を行い、その後、3時間ほど、街や海岸などを歩きました。この会は、参加者はわたし一人でした。26年かかってというべきか、25年かかってというべきなのか、ようやく、この日のこの時間に初めて黙祷を行うことが出来ました。黙祷を行ったことは、ただ黙祷を行ったというそれだけのことですが、誰のために、何のために行ったのかは、今も正直判然としません。ただただ、黙祷を行いたかった、そして、行ったという以上のことは、分かりません。

その後、三時間歩く中で、これは、歩くと言っても、ウォーキングというような感じのものではなく、強いて言えば逍遥のようなものでしたが、この26年を辿り直すような旅でした。

長い間、思い出すようなこともなかった人たちの顔がたくさん浮かんできました。長らく足を踏み入れなかったようなところにも、足を運びました。時間は折り重なり、時空は円環し歪んで行きました。

26年前の1月17日の朝、三重県北部の山中で40人ほどの人たちと、合宿をしていました。目が覚めるほど揺れたし、その暗がりの様子も鮮明に浮かんできます。この合宿では、時計や全ての通信機器は預かられていたし、TVもラジオも新聞もありませんでしたので、何が起こったのか詳しくは分かりませんでした。神戸から参加していた方だけ、何かを告げられ、途中でお帰りになりました。1月17日の前後1週間だったか10日間だったかの合宿を終えて、下山し、近隣の街の駅のプラットホームの売店で新聞を見て、初めて何が起こったのかを知りました。しかし、何が起こったのかを知っても、そこまでの衝撃が起こらなかったほど、その合宿の体験から逃れられないでいました。

この頃、わたしは、体調的にも精神的にも、これまで生きてきた中で最も弱っていた状態にあって、そんな中で、叔父叔母夫婦から、この合宿に行けばきっと良くなるだろうと強く勧められるままに、この合宿に参加しました。

この合宿では、昼夜が分からないほど、隔絶した空間の中で、40人ほどの参加者が車座になって、ある問いについて考え続けるということを、ただひたすら行いました。わたしは、それらが決して苦痛だとは思いませんでしたが、ついに、最後の問いになりました。

「この合宿が終わっても、ここに残れますか?」

多くの人が、様々に苦悶しながら、考え続けました。それまでの問いでも度々ありましたが、怒り出す人もあります。

苦悶し、怒り出す人もいる中、一人、また一人と、

「分かりました。」

「残れます。」

と、清々しい、安堵の表情を湛えて、様子が変わって行きます。

早々に、

「残れません。」と答えた人もおりましたが、

「で、ここに残れますか?」

と問いは続きます。

多くの人が、何か答えを見つけたかのように、悟ったかのように、

「残れます。」

と言って、穏やかな笑みを浮かべて行きます。

それでも、苦悶する他の人たちを、穏やかな笑みを浮かべた人たちは温かく見守りながら、

「頑張れ。」

と言う人もいたように思います。

わたしは、様々な人のことを思い浮かべながら、果てしなく、本当に終わりのないような時間の中で、自らに問いながら、ある答えのようなものを見たような気がしました。

次々に、「残れます。」と言って、解放されていくような人々に取り残されるかのように、わたしは、「残れます。」と、果たして心の底から言えるのだろうか、と問い続けました。

そして、苦しんでいる人もほとんどいなくなった頃、わたしは、ついに、

「残れます、ということを、全く嘘偽りなく、心の底から言うことは出来ません。」

と、嗚咽し、号泣しながら、皆さんに申し上げ、土下座するように平伏しお詫び申し上げました。

と、実は、この場面は、長らく明瞭には思い出せていなかったのですが、数年前に、徳島県の鳴門で行われた円坐と言う、やはり何人かの人で車座になって時間を過ごす集まりに呼ばれた時に、二十数年ぶりに、明瞭に甦って来たのでした。

土下座している姿が、はっきり重なって来ました。と言っても、実際には、皆が畳に座っていたのですから、正確には土下座ではなく、土下座のように深々とお詫びしたと言うべきものでしょう。

しかし、記憶というのは甚だ曖昧なもので、どことなく、土下座させられたような感覚もあったのですが、そうではなく、これは、明らかにみずから土下座したものだということは感じました。ただ、そこで、何故、お詫びしたり土下座したりしなければならなかったのかということは、その場面に立ち戻り、甦ってきたその時からも、まだ分かりませんでした。わたしは、その場で負けたのか、あるいは、自分を譲り渡してしまったのか。何故、そこにいる大勢の人たちにひれ伏してお詫びをしなければならなかったのか。あるいは、その場では、ほとんどの私物は預けていましたが、切腹してお詫び申し上げることくらいの激しいものがあったように思います。

わたしが、突然激しい胃痛に襲われたり、膝が痛くなって歩けなくなったり、アトピーが全身に広がって動けなくなったりして、仕事を続けることが出来なくなったのは、この合宿より2年ほど前のことでした。当時は自律神経失調症などと診断されました。この時は、テレビ番組を製作する会社で働いていましたが、昼夜三日くらい連続の勤務で寝られない、翌朝早朝出勤なのに深夜2時頃にロケが終わったのに、その後スナックに飲みに連れていかれるとか、スタッフ大勢の前で叱責されるとか、そういう日々でした。この頃のことを、昨年、アップリンクという映画配給と映画館経営の会社の元社員の人たちが、会社側のハラスメントを訴えたことを知り、度々思い出されて、これはこれで苦しいものがありました。

ただ、しかし、今もわたしには、時々、死にたい、とか、この自分を殺害したいという気持ちに苛まれることがありますが、こういうことを思うようになったのは、これまで書いて来た合宿以降のことなのです。合宿の後、約2年ほどで、そういう思いが激しくなって、それ以降、度々、なんらかの折に、襲って来ます。それは単なる思いというだけでなく、何度も、実際にそうしようとしたことがあって、今生きているのは、たまたま助かった、生き残っているということに過ぎません。

今年の1月17日の歩く間の会で、歩いていた時にも、この土下座して詫びている姿が何度も甦って来ましたが、ただ、わたしは、全く土下座させられたわけではないし、むしろ自分の意志でそうしたかったのだと強く思われました。嗚咽し号泣していたのですから、必ずしも冷静に淡々とではなかったのですが、わたしは、自分を責めていたわけではありません。そこにいる大勢の皆さんに、最大限の礼を持って、自らの意志進退を示したかったのだと感じられました。

残念ながら、皆さんと志を同じゅうすることは出来ません、ということを、身をもって示したいと思ったのではないかと思います。

で、あったなら、その後、幾たびも幾たびも、死にたいと思う必要もないように思うのですが、それが必要だったか必要でなかったかは、実際のところよく分かりません。そういうものでもないように思います。実際、この時のことを、初めて鮮明に思い出し甦って来たのが数年前で、更に、その様子をありありと見ることが出来たのが、この1月17日なのです。

正直なところ、わたしは、阪神淡路大震災の起こった1月17日が巡ってくる度に、長年に渡って、はっきりはしないけれど、何か模糊としているけれど、この時の合宿の情景が前景に浮かんできて、阪神淡路大震災のことについて何も考えたり、思い致したり出来ない自分のことを、むしろ後ろめたく感じてきたように思います。

その後ろめたさや、これらの一連のことを振り返る機会を、ここ数年は折々に得てきたように思います。例えば、間の会で映画『息の跡』の上映会が行えたことも、その一端だろうと思います。

今から9年くらい前に出会ったIPS(意図的なピアサポート)というグループワークや、円坐というものに出会ったのも、大きな出来事だったと思います。死にたいという気持ちがまだ強く出始めていた頃に、踊りというものに出会ったことも今でも大きなものとしてあります。

それだけ、一種の激しい苦痛のようなものを感じていながら、それでも尚、まだ、間の会という、複数の人で座るような活動をやっているのは何故なのでしょうか。

特に、問いやテーマを設定して集う時には、そうした疑問は、確かに必ず頭をよぎりました。

しかし、わたしは、この合宿に参加するより以前から、複数の人で話し合いをする活動は、一貫して行って来ており、複数の人で話し合う、語り合う、聞き合うという形態そのものに不快な感情を持っているわけではありません。むしろ、複数の人で集うこと、そして人前に立って、晒されることは、わたしが生きて行く上で最も大切なことだと思います。

また、わたしは、わたしの生きて来た道のりを、どうあれ、悔いている、後悔しているわけではありません。誰かを恨んだり、憎んだりしているわけでもありません。以前はそういうこともあったかもしれません。また、自分のことを責めていたこともあったろうと思います。しかし、今は、そうではありません。いえ、そうでもあっても何ら問題ではありません。これら全てを経て、今のわたしがあります。あったことはなかったことには出来ません。それらによいも悪いもありません。

ただ、わたしは、人が集まって過ごす場を作る際に、あの合宿のようなあり方ではいけないのではないかということは、明確に思うようになりました。どうしたら、あのようにならないのかということは、毎回慎重に考えていることです。

具体性を欠いた記述で進めて行くことにやや違和感を感じる部分があり、このお便りは、皆さんにお送りするだけではなく、ネット上で誰でも読めるようにもしておりますので、大変リスクもあるかと思いますが、これまで述べて来たこの合宿とは、幸福会ヤマギシ会という団体が主催している特別講習研鑽会(通称・特講)と呼ばれるものです。これは、三重県のお住まいの方などには、比較的馴染みがあるかもしれませんが、このヤマギシ会という団体は、農事組合法人ではあるものの、コミュニズムの一種とも考えられますし、新興宗教やカルトとして考えられている方もあると思います。この特講も、マインドコントロールや洗脳の一種と捉えられている解釈もたくさん見られます。また、この特講を受けたことがある、というだけで、もう既にヤマギシ会のヤマギシズム思想に洗脳されてしまった人として見られる恐れがあります。そうしたリスクを承知した上で、わたしは、これまで、ある種の親しい人にしかこうした体験を語って来ませんでしたが、事実として特講を受けたことがあるという事実を否定することは出来ませんし、改めて、この事実を公にオープンにしてもよいと、今、思えるようになりました。

1月17日に歩いていた時、一番鮮明に浮かんできたのは、1人は、その時の参加者の人で、ヤマギシ会に娘を取られたから取り返したいと言って参加しに見えて、何度もその合宿中に激しく怒り、ヤマギシ会の人たちと対立しながらも最終的には、これ以上ないほどの笑顔で帰られた年配の方で、もう1人は、特講の世話係として、ひたすら同じ問いを無表情に問い続けたヤマギシ会の人の顔でした。

この特講という合宿を、肯定的に捉えようと、否定的に捉えようと、あるいは、なんらかの憎しみや恨みを持っていようと、実際に、現在においても、これだけの影響を受けていることは否定出来ません。

その上で、わたしは、やはり、間の会を行っていく上で、ヤマギシ会の研鑽会のようであってはならないし、特講のようであってはならないと思っています。

一番重要なことは、何も目的を持たないということです。幸福を目指すわけでも、成長や悟りを目指すわけでも、気づきを目指すわけでもありません。癒しや慰めを目指すわけでもありません。

これらは、何かに反対してそうしているのではありません。

何度も書いてきているように、ただ集い、座り、歩く、或いは、踊る、舞う、それだけを行います。

何かを得たい方には、不向きかもしれません。

世の中をよくして行きたいとか、よくありたいということを求めておられる方には物足りないかもしれません。

あるもののありざまに、なきもののなきざまに、

ただただ、存在することを探求、稽古して参ります。

わたしはわたしだけで存在しません。

あることと、ないことを、極力嘘を廃し、見極めます。

他人を操るようなことを廃し、ただそこにある舞台です。

互いに、来し方行く末、まるごと、真っ向迎え入れるのみです。

恐れを抱くものは近づかない方が無難でしょう。



以上の件、すべてお問い合わせ、ご連絡先は、

●メール:aidanokai2015☆gmail.com (☆を@に変えてください。) 間の会 西脇秀典です。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

2021年3月9日   間の会  西脇秀典


❇︎写真は、2021年1月17日  歩く間の会 の時のものです。

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