【間の会のお便り】 2021年1月15日を掲載します。
【間の会のお便り】2021年1月15日
みなさま、寒中お見舞い申し上げます。
そして、遅ればせながら、新年のお慶びを申し上げます。
昨年は、たくさんのご縁をありがとうございました。
世の中がどのような状況であれ、変わらないものがあるように思います。
わたしは、誰か他の人の道を歩くことは出来ません。
皆さまにとって、穏やかな喜ばしい一年でありますことを祈念いたします。
ご案内にあたり、一、に関しては、郵送の方には間に合いませんが、行います。
大変、申しわけありませんが、発送が少し遅れます。
一、2021年1月17日 歩く間の会
日時:2021年1月17日(日)早朝5:00集合~8:00頃まで街などを歩きます。
場所:津市市役所北お城西公園の東屋集合 歩くルートは未定。(雨天も開催)
二、月々の間の会
日時:2021年1月24日(日)13:30~16:30
場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター 2階集会室
三、月々の間の会
日時:2021年2月28日(日)13:30~16:30
場所:津市贄崎地区防災コミュニティセンター 2階集会室
四、其々の間の会
事前にご相談して決めた場所、日時に所定の時間を区切って主に一対一で行います。
基本は対面になりますが、場合によっては電話やオンラインアプリでも行います。
お問い合わせください。
◆ 2020年12月27日、昨年最後の【月々の間の会】が終わりました。
ご参加いただいた皆さま、お心を寄せてくださった皆さま、誠にありがとうございました。改めてご縁に感謝いたします。
毎回全く異なる時間であるには違いないのですが、月並みのものとしてやっている面もあり、どこか継続的な感じもあるのですが、初めての方のご参加もあり、また、毎回顔ぶれも異なり、改めて、一期一会、まさに即興の醍醐味に触れたと思います。
瞑想と坐禅、その目的と副作用、舞と踊り、目的のあることと、ないこと、石積みと賽の河原、具体的なある行為の遂行、目の前にあることと、それからの退行、日常やプライベートと公共空間、話は多岐に渡るようで、ある何かを巡っているようでもあり、室内での開催ではありながら、赴くままに歩き逍遥する道筋を辿る時間のようでもありました。
じわじわと面白く、まだ余韻が残っています。
昨年最後の会でしたが、あれは昨年の納めなのか、終わりなのか、区切りなのか、続いていくことなのか、始まりなのか、年が明けても俄かには判別つかないものがあります。年の終わりとは言え、やはり、一回一回のこと、というようにも思います。
ともあれ、昨年も大変お世話になりました。
つくづく、ご縁の尊さを感じます。
それは、ご縁をいただくことと、ご縁が尽きることと、その両方においてです。
見慣れた景色と思っているものも、毎回、鮮やかに、立ち現れてきます。
昨年一年を振り返って、この間の会の営みを、更に幅広く、多くの人に広げていきたいかというと、必ずしも、そうでもないのですが、少なくとも、人数とか規模ではありません。ただ、この面白さをもっと伝えられたらな、と思いはいたします。
ご縁のある方には、もう届いているかもしれません。
◆ 間の会というのは、こうでなければならないとか、こういうものだということは、特にないような気がします。あまり、そのように特別な言葉だとも思っていません。
ただ、「間(あいだ)の」会なので、それは、集まったもの同士、たとえ、羽毛一枚ほどであろうとも、その間にあるものを大切にいたします。
我と汝の「と」にあたるものです。
「と」に触れている限り、我と汝は、ともに、尊いものでありながら、あるいは、「と」かもしれません。「と」は、遮るものではなく、むしろ、あなたがいるからわたしがある証かもしれません。
わたしは、既に、他者を含んでいます。
わたしとは、ある運動、動き、働きのことなのだろうと思います。
そういう風にしか、「わたし」はあらわれないものですから。
◆ ここ数年の間に、何人かの方から「自分は言葉を信じない」というような言葉を聞きました。
「ぼくは(わたしは)、言葉を信じていない。」
「言葉を信用出来ない。」
「言葉が信じられへん」
何故か、そのような言葉を色々な人から度々聞きました。
そのことについて、長らく考えていました。
言葉によって、言葉を信じない、信じられない、と言うことは、可能なのだろうか?
と言うことを主に考えていたと思います。
年が明けて、しばらく、またこの問いが浮かんでいました。
が、つい最近、少し腑に落ちる感じがありました。
言葉に信じられている、わたしや、わたしたちが、言葉を信じるも、信じられるも、それは、確かに、言えるなあ、と。
わたしが言葉を信じまいと、信じられまいと、既に言葉に信じられているのですから、それはある意味、些細なことです。
ここで言う言葉とは、映像や図像、からだ、目の輝きや曇り、呼吸や鼓動や血流の音、あくびやげっぷやおなら、風の音や街の音、波の音、世の中にあるもの、自然や宇宙に現れるもの、すべてのことです。
わたしもあなたも、わたしたちも、既に、あらわれているものに、信じられています。
で、なければ、何もありません。
ない、と言うことも、言葉はあらわしています。
何か、そう、腑に落ちるものがあって、みなぎって来るものがあります。
人類がすべていなくなった後も、何か楽しみですね。
ワクワクいたします。
再び、わたしは、誰か他の人の道を歩くことは出来ません。
間の会は、どこか得体の知れないものかも知れませんが、それはわたしにも分からないので、誰も分からないだろうと思います。
ただ、間の会は、間の会であるだけです。
集まるなら、集まると言うことだけを、聞く、話す、見る、歌う、踊る、舞う、歩く、ただ、それだけのことを、それ以上の何の意味づけもなく、行います。
これはいつまで経っても、初めてのことで、新鮮で、慣れることを知りません。
福祉や支援や芸術や政治や何らかの分類に収まることはなく、よいことでも、正しいことでも、悪いことでもありません。
いかなる抽象的なこととも関係がありません。
今の時代に限らずですが、分類され得ないものは、忌避されたり、差別されたりするかも知れませんが、どうあれ、ゆきます。そういう道行です。
◆ 一、に関しまして、26年前のこの日、わたしは、ある山中で合宿をしておりました。そのことが、この日の前後一週間くらい、ずっと毎年、思い出されて、何かが許せないような思いに苛まれてきました。今年は、ややそういう感じが少ないようです。そういう感じが少なくとも、その日のことは、いつまでも鮮明です。きっと生涯忘れることはないでしょう。苛まれていた、許せないような思いがなんだったのか、それは、今年もまだ気になるので、早朝ですが、歩いてみることにしました。ご一緒に歩いてみようと言う方は、お集まりください。それぞれのこの日があることと思います。
◆ 四、については、今後、一対一の間の会を、やって行きたいと思います。「其々(それぞれ)の間の会」といたしました。事前にご相談ください。今、わたくしは、高齢の両親と同居しているので、あいにく、今の状況下では、都会でお会いすることは出来ません。ただ、場所や方法を相談して、行ける範囲のところでしたら赴くことも出来ますし、電話やオンラインアプリの利用もよいかと思います。試みにはなりますが、これは、今後も行く方向と心得ます。お便りの一番下の問い合わせ先まで、お問い合わせください。
◆ 最後に、年頭にあたって、置いておきたい言葉として、西脇のフェイスブックページに置いた言葉をこちらにも、置いておきたいと思います。
喜びに おめでとう
楽しみに おめでとう
面白みに おめでとう
安らぎに おめでとう
悲しみに おめでとう
苦しみに おめでとう
寂しさに おめでとう
空しさに おめでとう
やさしさに おめでとう
悔しさに おめでとう
恥ずかしさに おめでとう
怒りに おめでとう
いたみに おめでとう
かゆみに おめでとう
出会いに おめでとう
別れに おめでとう
来る人に おめでとう
去る人に おめでとう
生まれる人に おめでとう
逝く人に おめでとう
寿命は いくつでも
すでに 祝われている
あるものに おめでとう
ないものに おめでとう
影に形に おめでとう
闇に光に おめでとう
今と昔とこれからに おめでとう
ある言葉を別の言葉に
置き換えたくなくて
どの言葉も愛おしく
言祝ぎたい年の初めです
以上の件、すべてお問い合わせ、ご連絡先は、
●メール:aidanokai2015@gmail.com 間の会 西脇秀典です。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
2021年1月15日 間の会 西脇秀典
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